ようこそ真光寺ブログへ。
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目指せ1000記事投稿!(2019・10月6日現在872本)
なむあみだぶつ
2009/11/20
久しぶりにCDまとめ買い。

「天はニ物を」・・・といいますか、凄い人たちです。
写真左下・宮本笑理(ミヤモトエミリ)というバイオリニストがおりまして、今後大活躍されるでしょう。
元来、諏訪内晶子(スワナイアキコ;その他全ての写真)のファンなのですが、ポスト諏訪内出現というか、今後両者の表現の仕方に注目するところです。
この両者は対称的な演奏家です。宮本笑理は春の羽のような女性的な音なのに対し、諏訪内晶子はタッチが強く男性的な音を出すような気がします。
中古で買ったイタリアの真空管プリアンプ、ユニゾンリサーチS6にて再生中。イタリア物はフェラーリにせよ、どうやってフェロモンの出る工業製品を造るのだろうか?

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2009/11/13
福井県小浜市の人たちがオバマ大統領に来てほしい、と希望されているそうな。
ダジャレに乗じて何を考えているのか、と思うが、沖縄の普天間の基地問題などの話題を寡聞にして考えさせられることである。
憲法第9条の問題と絡めて宗教者の行動も目立つことで、“一切の武器を放棄して平和を築こう”、との運動をされる。
その根拠は『無量寿経』の、
かの仏国土は無為自然にして、みな衆善を積んで毛髪の悪もなければなり。
・・・仏の遊履したまふところの国邑・丘聚、化を蒙らざるはなし。天下和順し日月清
明なり。風雨時をもつてし、災レイ起らず、国豊かに民安くして★兵戈用いることなし。
★兵戈(ひょうが;兵士と武器)
である。しかし、経典の内容は“かの仏国土(極楽浄土)”で、仏様が遊履(ゆり;歩き回る)する世界は平和であり武器は用いる必要がない、と読むのが自然ですが・・・。
「武器を放棄する」ということと、「武器を用いる必要がない」とでは意味が違うと思います。「戦わないために武器を所持する」(抑止力)という矛盾構造の中に親鸞精神に通ずる深い煩悩の問題が潜むのではないか・・・。
フジテレビ『不毛地帯』(木曜・22時〜)をご覧でありましょうか。
柳葉敏郎演じる防衛庁空将補の川又伊佐雄のセリフが忘れられません。
「この国には、ラッキードF104(戦闘機)が必要なんだ。二度と戦争しないために、させないために」
・・・この苦悩を理解せねばなりません。
家族や家を犯罪(盗難・殺人・放火)から守るには、地域で防犯意識を高め、保険に入ったり戸締りを強固にするなどの対策を講じます。信心してるから犯罪に遭わないんだとかいうヒトはいません。
それと同じように国家が国民(財産)を不測の事態から守るには、自ら戸締りを徹底し(自衛隊の意義)、もし泥棒が塀を乗り越えようとしたら番犬に噛ませる、というのは当然の理屈。
そう、アメリカ軍は日本の番犬と考えれば分かりやすい。要所に犬小屋(基地)はいるし、大量のエサも食べる。飼い主の手を噛まれることもあるが、居なくては困るのである。そして日本は敗戦国であり、諸条件を飲んで国際社会と契約したからこそ復興ができた、などという【現実】を宗教者はどのように対応するのかが、問われているのではないでしょうか?
逆にいうと、宗教者は独自の世界観に執着し、都合のいい時だけ「やれ如来さんや、親鸞さんは、」言うて異見を聞かないから世間で相手にされないとも言えるのです。
本願寺も上空は日本国領空として不断の監視下で白銀の大屋根と共に御真影を守る。親鸞聖人時代には考えられないこと。そこに憤りを感じる人も多かろうが、それが現実の娑婆世界であり、ここは極楽浄土とは違う、ということ。
・・・話は戻って小浜市に基地を移転する用意があるならオバマ氏は喜んで訪問するのではないだろうか。小浜市(日本海)近辺は原発が点在する非常に危険な地域ですから。
また住職案として「沖縄の方々の今までの過大な負担を考慮し、県民の税金をすべて免除し、宗教法人から【平和税】を取って相殺すればどうか」、といっておりました。
・・・極楽が近い人の言わはることは違いますなぁ〜。

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2009/11/8
堺市ではようやくゴミの分別回収が本格化しました。
それまでは【缶とガラス瓶】【生ゴミ(プラ・紙等混合)】の2種だけだったのが、【プラ容器】【小型金属】【ペットボトル】【生ゴミ】【缶・ガラス瓶】の分別廃棄が求められました。
つまり、混沌とした【無分別】廃棄ではイカンということ。
これら分別作業は・・・結構たのしい。みんな私のことを几帳面なA型だと思っているようだが、基本大雑把なO型である。つまりはあまりモノには執着はない。要・不要とを分け、いつ死んでもいいように身辺はキレイにしておきたいと思う方だ。
しかし、仏教の世界においてはこれらの意味は全く逆になる!?
つまり、【分別(フンベツ)】してはならん、という具合です。
分別とは、物事を分けて考える、という意味です。一見正しいように思えるこの意味も問題があります。それは、“物事を分けて考える主体である私の判断”が極めて頼りないという点です。
身近な例でいうと・・・、
あなた(私)の身近な人を5人あげてみてください。
その5人の評価は、あなた(私)の判断によって色分けされてしまうでしょう?
しかしその5人は、あなた(私)の固定観念・常識がそう思わせているだけで、実際はどうだか分かりませんよね?それを仏教でいうところの【分別】といいます。逆も真なり、で周囲のあなた(私)への評価も必ずしも正しいものとは限りません。
「いい人・悪い人はいない。そうと思いこんでいる私がいるだけ」
この世界は誤解で成り立っているといっても過言ではないでしょう。
一方の【無分別】とは、
譬えれば“赤ちゃんの心のようだ”、といえましょう。
固定観念や常識が未発達な赤ん坊は、逆にものごとをあるがままに見ることができると言えるでしょう。そこに意味さえも付与しない無垢な境地とでも言うか・・・。
それが仏の智慧たる【無分別】の境地です。
生きていくことに「意味」はありません。そこに意味を見出そうとする(分別する)から人は思い悩むのでしょう。
これからはゴミは【分別】、生き様は【無分別】でいきましょう〜。

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2009/11/3
いよいよ、全国的に【親鸞聖人報恩講】シーズンである、
田の刈り取りも終わり、農家の方々にとっては聖人への報恩の思いと、先祖に対する豊穣への感謝とが重ねて味わわれる時節でありましょう。
これが6月の田植えのクソ忙しい時に報恩講が勤まっていたならば、ここまで真宗は発展していなかったとマジで思います。そういうタイミングを見計らって聖人は亡くなられたのでした、などとは口が裂けてもいえません!!
さて、わざわざ冒頭で【“親鸞聖人”報恩講】としたのは大きな意味があります。
報恩講が長年の営みの中でマンネリ化し、門信徒が親鸞聖人のご法事だということを必ずしもご承知でない、いや我々が伝えてこなかったという点を反省せんがためです。報恩講の布教を聴聞していても、親鸞の“し”の字も言われないのはちょっと信じらないことです。
報恩講とは人間・親鸞というパーソナリティーを通じた如来の心を聞く場ではないでしょうか?そのパーソナリティーが非常に普遍的な性質なので、御同朋というスタンスが明確になってくるわけですが、そういう意識が欠落すると報恩講は単なるイベント・年中行事でしかなくなり、真宗・寺院が衰退の一途を辿る導火線となるわけです。
・・・などという文脈において、真光寺の法要では極力、下記の如くの表白(ひょうびゃく)を拝読し、今日は親鸞聖人の法事なんだよ、ということを宣言するわけです。表白はオリジナルで、毎年改定しています。長すぎず、短すぎず、難しい用語もハッタリで入れて・・・といった点も重要です。
敬って大慈大悲の阿弥陀如来ならびに
宗祖親鸞聖人の御影前に白してもうさく
本日ここに 有縁参集の僧侶・門信徒と共に
恵日山真光寺 報恩講法要 を勤修したてまつる
それおもんみれば 承安三年春のころ
親鸞聖人(幼名松若丸)日野の里にご誕生ましまし、
早、御年九歳にして出家の志あり
台嶺の窓に入りて 修学研鑽二十年
しかれども出離生死の理、見極め難く救世菩薩の告命を受け山を降り 法然上人の指南によりて 自力の雑行を棄てて ついに本願他力をえらびたまへり
身命を省みずして正法伝道幾十年、末代衆生勧化その数を知らず 時はついに 弘長二年 仲冬下旬悲しきかなや聖人 御年九十の齢にして 往生浄土証大般涅槃を遂げたまう
爾来、ここに七四七年 末代の門信徒
聖人の導きによりて 阿弥陀如来よりまことの信心
をめぐまれ、 念仏を申す人生を歩み、この世の縁が 尽きんとき 浄土に生まれて仏となり、 迷いの世にかえりては、如来と共に迷える人々を救い導くことを知る。
ここに親鸞聖人への報恩謝徳の念 ますます深くして 金剛の信心はいよいよ堅く つねにわが身をふりかえり、 慚愧と歓喜のうちに、御恩報謝の御同朋の生活を送らんと欲す。
如来、大悲を垂れて 之を哀愍納受したまえ
( )敬って白す

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