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なむあみだぶつ
2010/6/29
ふと先の記事の最後に述べた、person(個人)と personality(個性・人格)について、脳裏にひらめくものがあった。
person は、元はラテン語の persona(ペルソナ)であり、ユング派の心理学用語であるところの【人が他者と接するときに用いる表層的な人格、仮面】を意味する。
ちなみに「ユンソナ」とは関係はない。
この言葉が「阿弥陀如来」の本質に迫るのに好適ではないか、と頭をよぎったのである。
「阿弥陀如来はどこにおるのだ、どんな姿をしているのか」、と聞かれることがしばしばだが、これは如来(仏)を身体的にとらえ、実在するものという前提のもと、出てくる問いである。ある種の誘導尋問である。坊さんは安易な問いに引っ掛かってはならないゾ。禅僧を見習うべし。
以下、ちょっと難解な話(レベル4/5)をしますが・・・、
本堂や仏壇の中央に安置されているものは阿弥陀如来ではありません。あれは【方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)】と称する、阿弥陀如来の智恵と慈悲を模した御姿です。上に問いを発した方は、おそらく宇宙のどこかに方便法身尊形のような阿弥陀様が居るはずだ、それを示せということなのでしょう。ですが、そんなものは宇宙のどこにもありません。
『観無量寿経』では阿弥陀如来とその浄土を観察する行法が説かれており、長く実践されてきたのだが、親鸞さんは『観無量寿経』を真実教ではなく方便教と説かれる。
これは聖人が阿弥陀如来を表層的に見ること(凡夫の主観・執着を退けた。・・・煩悩の私が見る阿弥陀も煩悩的である、みたいな)を避け、より本質に迫ろうとされた。その本質とは名号、すなわち南無阿弥陀仏である。阿弥陀如来のペルソナ化を意図的に避けられているのではないだろうか??
親鸞さんは、名号を聞くという行為で仏と我々との接点を見出す。我々が「お〜い助けて〜」と称えて阿弥陀さんが「どないしたん?」ではない。十劫も前から発せられた阿弥陀の声を私が聞き、「声が届きました、今、救われました」という順序である。
親鸞聖人は『浄土和讃』に、
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
十方諸有の衆生は 阿弥陀至徳の御名をきき
真実信心いたりなば おほきに所聞を慶喜せん
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど
塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ
・・・等々、いずれも阿弥陀をペルソナ的に見ていない。
personality(性格、効用?)として捉えているのはないだろうか?
現在の浄土真宗は親鸞聖人の阿弥陀如来理解とは程遠いと思う。
キャラクター化までされ、より人格的に、という意図は分かるが何とも違和感がぬぐえない。いやいや、お山では阿弥陀如来よりも親鸞聖人の方が大事なんだからどうでもいいことなのでしょうか?!
おしまい。

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2010/6/23
基本、通夜では法話をしない私ですが、状況によりけり。
起承転結でまとめます。
@挨拶・・・お悔み申し上げます。
A浄土真宗の生死観・・・死・逝去じゃなく、往生なんだ、と。
Bたとえ話・・・土中の幼虫と成虫の話
C結語・・・夜を徹して故人の思い出話に耽ってください、云々。
以上を7分以内。
とどのつまり、「死は終わりではないんだ」と説くのが坊さんの仕事である。死んだのに浄土で仏となって新しく生まれていく、すなわち「往生成仏」。
人間は土中のセミの幼虫のようなもの。
幼虫は土が全世界であると信じて疑わないが、やがて殻を破って羽を伸ばし新たな世界を知る。幼虫の死は成虫としての誕生、ということ。
幼虫(人間)にどんな説明をしても、青空(浄土)の広さと美しさは分からない。しかし人間には経典の所説をたずねることで浄土の片鱗をうかがい知ることが出来るという救いがあるんだよ・・・ヘタな修行や理屈はいらない。南無阿弥陀仏という名号で皆さんと浄土はつながっているのだヨ・・・と。。
この程度の話は中・高生でもよく聞いてくださる。
死への不安は誰にでもあります。しかし“死は通過点に過ぎない”、と知れば少しは考え方が変わってくるだろうと思います。そしてこの世のことは全て幻だということも。浄土教は本当によくできた、ありがたい教えだと思います。

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2010/6/18
ついついワールドカップ・サッカーを見てしまいます。
実は管理人は大昔、サッカーをやっていたことがあります。
いわゆる漫画『キャプテン翼』時代でリアル選手でいえばマラドーナやミシェル・プラティニ、ジョージ与那城なんかにあこがれていた時代です。小6の時、1986年メキシコ大会・日本時間午前4時の決勝戦、西ドイツ対アルゼンチンを観戦してたのを覚えています。セルジオ越後が登美丘東小学校に来て、教えてもらったのもよく覚えています。
また、サッカーシューズも流行りましてプーマ派かアディダス派なんてのもありました。プーマの「パウリスタ」というシューズを買ってもらったのですが、同級の海江田マコト君に奪われたのを昨日のように覚えています。
サッカーしてたら祖父によく叱られたもんです。
「足で蹴るなど行儀悪い!」
・・・お行儀の問題じゃないんですが(+_+)
さてさて、スポーツほど堂々とナショナリズム(大胆に訳して“国粋主義”)を戦わせられるものは他にありません。つまりはオリンピックや世界大会があるから大きな紛争が比較的回避されているのではないか、と思いませんか?国同士はやはり色々と不満があろうかと思います。
ジョン・レノンみたいに「国境の無い世界をどうたらこうたら・・・」想像(イマジン)するだけで平和になったら軍隊も警察も宗教もいらないって。
選手自身が体を動かして、見ているファンも手に汗握る。人間はエネルギーを発散させる場が必要で、けだるい日常のガス抜きが必要なのでしょうね。自分を選手たちに投影させているわけです。都道府県や地域対抗でもよいのですが、やはり世界大会は違います。国旗の色は民族の特性に応じて心理学的に民を奮い立たせる効果があるに違いありません。
かたや日の丸を旗印にしている角界では、大麻に続き賭博問題です。
相撲は純粋に元の神事に回帰すべきでしょう。日本の伝統だとか、塩まいて穢れを清めるだとか、すべてがウソくさく見えてきます。口数少なめに事実を覆い隠す、言葉の裏の心を読めとか、そういうものが日本のナショナリズムだとか思っている人たちが尚も角界に多いようです。
時機悪く、ワールドカップと対比的に見られ、純粋な相撲ファンにはお気の毒なことですねえ。

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