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なむあみだぶつ
2010/8/27
既に多くの方の目にとまった本であろう。
五木寛之著『親 鸞』上・下 講談社刊
親鸞との生涯は津本陽・丹羽文雄など、過去に何人かの手により小説化されている。
今回の五木氏の文調は今日の格差社会にも通じ得る、社会の底辺に生きる人々、雇用や生活不安などの社会問題を連想させる、・・・これらを五木氏は「闇」と呼んで時代に警鐘を鳴らし続けてきたのだが、そういう現実と五木氏の『親鸞』の世界観を重ね合わせた読者は私だけではないだろう。
当時、念仏の教えを支持したのは、「世間からは河原の小石、つぶて、瓦のかけらのように見くだされている人びと」(下巻290頁)である。
親鸞は比叡山を降りた後、そのような層の中で生きたのであるが、これは決して親鸞が憐れみの念を持って底辺に生きる人々を助けてやろう、と思っていたのではない。親鸞自身が優秀であったにも関わらず小石やつぶてのような存在であると自覚し、深い罪業観を抱き、そういう人々をこそ救うと誓う念仏に、仏法の真意を見たからである。そして苦しむ人々との間でシンパシー(共感)を覚えたからである。
小説では親鸞の出身家である日野家が、
「あまり日の当たる場所には出られない、わけありの御家柄なのですよ、・・・それは放埒(ほうらつ)の血です。日野家にはその血が流れているのです」(上巻39頁) と描かれ、
「異形の牛飼童や乞食同然の聖たちや、辻の遊芸人たちや、無頼の徒たちの世界にどうしようもなく惹かれるのはなぜだろう・・・やはり放埒の血のせいであろうか」(同47頁) などと、一瞬ギョッとする箇所がある。
この辺りの記述を五木氏はくどいまでに上巻の導入部で書かれている。こういう伏線が当小説のバックボーンとなっているのですが、この辺りのニュアンスが理解できないと人間・親鸞は理解できないでしょう。
その親鸞像は本願寺などで説かれる「御開山」「宗祖」「親鸞“聖人”」という高尚なる表現とはあまりにもかけ離れているのである。
「人間・親鸞」と見るか「宗祖・聖人」と見るか、
・・・これは非常に難しいところです。
五木氏はむろん、前者です。
僧侶が説く親鸞聖人像は宗派の匂いがキツクて胡散くさい気がしてならないのは私だけでしょうか・・・。

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2010/8/20
先日、書面による本人の臓器提供への意思表示がなく、家族の承諾のみで脳死判定された男性の臓器を患者に移植する手術が行われ、全国の5病院ですべて終了したという。
97年の臓器移植法施行後、脳死での臓器提供は今回が88例目。今月9日には、同法改正後初めて家族の承諾だけで脳死判定されたが、提供者は生前に口頭で提供意思を伝えていた。今回は、本人意思が不明で脳死判定と移植が実施された初のケースとなった
ものである。
・・・う〜ん。
なんだか、なし崩し的に脳死からの移植手術が行われていく気が・・・。
脳死とは、端的に言って、心臓などの臓器は生きているが、脳は死んだ状態である。従前ではこの状態では死とは言えないが、移植のためには新鮮な臓器が必要とのことで、いわば必要に迫られて、法律で規程された「便宜的な死」である。「生物学的な死」とはいえない。
(※「植物状態」と「脳死」は違う。前者は脳幹が生きており、自発呼吸ができるが後者は脳幹もダメで人工呼吸器が必須である。ちなみにヒゲや爪は伸びる。)
管理人は大学1回生の頃は独学で、大学院の頃に臓器移植の宗教・倫理的意義をグループで学んでいたことがあり、いろんな意見を戦わせたものだ。研究雑誌に対談集を載せたこともあった。
よく持ち出される意見は「助からない命が助かる方法があるのに、なぜに躊躇するのか?」といったものである。
しかし、これには
@ 適合性などの問題などで臓器をもらう側の患者間で助かる・助からない可能性が生じる。
A 移植しても助からない病で苦しむ患者と家族との不公平感。
といった倫理的問題があり、究極的には臓器の奪い合いがおこり、お金や権力者の圧力によって移植先が決まってしまう恐れがあるのだ。
これは究極の倫理的問題といってよい。
移植を待ち願うということは、誰かの死を待ち望むということであって、究極のエゴイズムと言えなくはない。
今回の事例は、命を役に立つものと立たないものとに分けるきっかけと受け止めている。あと3年くらいしたら、絞首刑で処された人の臓器を有効利用しよう、というようになるであろう。それをマータイさんみたいに「MOTTAINAI〜」とか言い出したらどうしようか!!??
医者は自らの業績を作りたいからどんどん手術に踏み込むだろう。
こまったことに日本には倫理の専門家が居るようでいない。宗教家はあまりこの件については関心が無いと思われる。医者の倫理観は患者と相いれないとも思う。
私は脳死からの移植には問題が多すぎるので反対だ。
臓器提供の有無については、本人ではなく家族などの肉親の判断に委ねるべきだろう。だって死んでしまったら意識もへったくれもないのだから、好きにすればよい話で。
ここはやはり京大の山中教授によるIPS細胞(どんな組織にも変化する細胞)の研究の発展を待つしかない。自分の細胞で自分の臓器を作れば誰も文句言う人はいないだろう。

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2010/8/15
これで夏も終わった、と感じさせる8月15日。
いろいろと頂きものもあり、早速疲れをいやしています。今年はギックリ腰というアクシデントに見舞われたお盆でした。
連日満員の近所の和菓子屋【一心堂】さんの新作、「豆乳プリン・抹茶ソースがけ」。店主はウチの信徒さんでもある。中間層のツブ餡が苦手な私は食感を楽しむためにも、餡の代わりにチョコ・フレークを入れると良いと思いました。
さて、平成22年お盆を総括して、ちょっと流行りの【謎かけ問答・仏教編】を考えてみました。
@「お盆」と掛けまして、「弓道部の装束」と解きます。その心は・・・
・・・はかまいるでしょう。 → 墓参り・袴要る。
A「京都の送り火」と掛けまして、「お参りから帰ってきたお坊さん」と解きます。その心は・・・
・・・大の字になっています。 → 大文字焼き
B「お仏壇の座布団」と掛けまして、「今年の猛暑」と解きます。その心は・・・
・・・あつすぎて倒れそうです。 → 座布団は適度なものを。
C「お線香」と掛けまして、「夏休みの女子高生」と解きます。その心は・・・
・・・身を焦がしてハイ(灰)になりました。 → 火遊びは止めよう・・・。
D世俗編;「投資家」と掛けまして、「お漬物屋さん」と解きます。その心は・・・
・・・カブが塩漬けになっています。 → 食べるタイミングを見誤るな!
こんなこと考えながらお経あげてたら、先祖も浮かばれませんね?!

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2010/8/7
お盆参りも中盤である。
日中のお参りはさすがにキツイ・・・
ならば、と早朝にシフトしてお参りをすると誠に効率もよく気持ちがよろしい。
周囲の人に「活気のあるお寺サンやな〜」、と演出する狙い
も実はある・・・。
大体、仏事では午後は“逮夜(たいや;14時頃〜)”といって、夜におよぶ時間帯なのです。よって法務(お参り)は基本、午前で切り上げて、午後は臨時法務や訪問客の応対に寺内維持管理、事務仕事、各種会合に充てたい。
で、提案するのは、世に多様な職種があるにせよ、夏だけでも全ての時間を2時間ほど繰り上げてはどうだろうか?7時始業で16時退社にして。
当然、エコにも貢献する。早朝から明るいのに寝ていてはもったいない。早く帰って寝ればムダな電気も必要なかろう。夜行性の人は致し方ないですが・・・。
さらには経済波及効果も大きいでしょう。
つまり夕方まで完全に仕事が終われば、ゆっくりと買い物や観劇・食事、家族サービスに費やす時間ができる。・・・夏の間は消費税を3%にして消費を後押しするというのも良いですよ、管サン。
高校野球はどうか?
炎天下の試合なんぞ、関係者しか観戦していないではないか?2試合ほどナイターにすれば一般観客も増えるのではないか?優勝校は阪神の2軍と試合させるとか、興行的にちょっと工夫したらどうか?
我々は物事を早く切り上げて「遊ぶ」、ということに関して罪悪感が抜けない。
この場合の遊ぶ、とは“享楽に耽る”ということを意味しません。見聞を広めることであり、英気を養うということです。
多くのビジネス書によると、大成する人間はおしなべて早起きであり、残業もしないようです。午前にやるべきことの8割をこなしてしまい、遊びの中で本業に使えそうなヒントを絶え間なく収集し、人脈を広め、ビジネスチャンスを開拓するのだそうです。
朝からダラダラ、会議もダラダラ、仕事もダラダラ、
飲み会・ゴルフもダラダラ、国会もダラダラ・・・。
やがては人生もダラダラと終わることでしょう。
他人事とはいえ、もったいないですねえ。

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