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なむあみだぶつ
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2011/1/31
「法話(ほうわ)」とは・・・、
浄土真宗の僧侶が、門信徒・一般市民に対して、阿弥陀如来が我々を救済する道理・如来の慈悲心等々を説き、あまねく教義流布し・人々の宗教的情操の安定に努めること。
と、定義しておこう。
実際のところ、法話はストーリーの顛末・話術等の経験を有する“技能”の一つであり、教義に裏打ちされた“知識”の蓄積でもある。また臨床医のように臨機応変の“機転”も求められる、大変難しいものである。話が盛り上がってくれば口々に「なんまんだぶ・・・」との声が漏れる現場の様は、見様によってはエクスタシー(宗教的陶酔)であり、それをおかしな方向に持っていかないようにすることにも配慮が求めれるといえよう。
専門用語に独特の言い回しも頻出し、時には“独自の価値観”が跋扈する。
たとえば次のような話はどうだろう?(実際にあった話です)
「・・・このたび、お子様が亡くなられましたのは、ご両親に南無阿弥陀仏の“み教え”を命を賭けて届けんがため、とお味わいいただきます。お念仏は皆様が称えるものではありません。それは亡き御子のためにはなりません。それは自力であり、如来さまの御慈悲のはたらきを疑っていることになるのです。・・・そして何より皆様がご信心を頂くことが大切であります。浄土真宗は生きている人を救わんがためにあるのです・・・云々」
私が亡き子の親であれば、その場で正気を保っていられる自信はない。お布施は半額にしてやる!
状況が変われば、「両刃の剣」の側面を持つのが、法話というものの恐ろしさである。
昨日、得度から帰ってきた僧侶でも「何かエエ話せなあかんな」、というプレッシャーに押されている僧侶はとても多いと思う。
譬えるならば「いきなり法話をしろ」、というのは“免許取立ての者が時速300qのレーシングカーに飛び乗るようなもの”だ。
まずは、人前での挨拶の練習から。
・・・世相・時候のこと、農家の人がいれば作物のことを案じる等々。
次に、とりとめのない話(月参りなどで効果的)をしてみよう(閑話;かんわ)。
たまに書店に行って、スピーチや話術等の本を種々購入して、話し方の勉強しましょう。
次には、世相の諸問題(政治・他宗教の題材はタブー)を取り上げ、自分の意見を述べてみよう。
次には「正信偈」など身近なお経の一節を取り上げ「これはこういう意味ですわ〜」的な解説をしてみよう。
時々、「真光寺ブログの間」をチェックしよう!!
次に、倫理・道徳的な話をしてみましょう(講話;PTAでの挨拶のような)
法話はそれからでも遅くありません。
また、お寺での話は僧侶・布教使でなくとも、在野で活躍される方々の講話を拝聴するということもあってよいのではないでしょうか?もっと裾野を広げていかないと、誰も寺には参りに来やせんて!!

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2011/1/17
小正月も過ぎ、正月の最後の片付けものとなるのが、この鏡餅。
本堂や納骨堂のお供えのお下がりを含めると、相当の数になります。

ぜんざいにして来客に振る舞ったりすることもありますし、油で揚げて、カレー粉や「ゆかり(シソの振りかけ)」をまぶして「あられ」にするのもよいです。
しかし、私はお餅の粘ついた食感が苦手です。
・・・本人・家族ともども、いつ喉につまらせやしないか、とハラハラします。
関西の雑煮は白味噌仕立てで、餅はマル餅(角が立たない)で、焼かずに煮る(焼くと火事を連想させるとか)のですが、汁の中でモチがドロドロに溶け、決して美味なるものではありません。
調べてみますと、
2006年間に、消防調査と救命救急センターに寄せられた、餅による窒息事案は168件あり、以前に問題となった「こんにゃくゼリー」窒息事案の数十倍になるそうです。ゼリー会社は責められましたが、身近にある危険な食材をなぜ規制しないのかな、と思います。

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