2011/4/22
ということで、和讃解説の前に、法要の冒頭で誦される「頂礼文(ちょうらいもん)」から味わっていきましょうか。
南無帰命頂礼
極楽能化 弥陀如来
この頂礼文、『讃弥陀偈作法』の頂礼文の御文・節に似ています。
浄土真宗本願寺派の声明(節回し)は天台宗から由来しておりまして、短文ながらも非常に荘厳な感じがして、作曲者の並々ならぬ思い入れが感じられます。ゆっくり堂内を震わすように唱えるのがコツでしょう。
さて、頂礼文は端的に言って「南無阿弥陀仏」と意味が同じです。
「南無阿弥陀仏」を最上級に形容したのが、この頂礼文です。
「南無」「帰命」「頂礼」は同義で、“平身低頭にて如来の威神無極を讃え、本願召喚の勅命に帰する”、といったところでしょうか。特に「頂礼」とは、別名「接足礼(せっそくらい)」ともいい、インドの礼法で尊者の足を自らの両手の掌に受け、なおかつ頭に尊者の足をなでつけて礼する、という最高レベルのお辞儀なのです。
儀礼は礼拝に始まり、礼拝に終わります。
実際の法要では導師が内陣中央の礼盤(らいばん)に登る前に、立ったり座ったりの起居礼(ききょらい)を3回繰り返します(三拝)。このとき、どんな大男でも頭を深く下げたら小さく見えるのが興味深いです。これは如来の前で自己の小さきを知るということなんです。礼とはそういう精神性があるのです。これは僧・俗問わず、仏教徒の崇高なる精神性の具体相だと思います。
(余談ですが、東北被災地に天皇皇后両陛下がお見舞いに赴かれた際、膝まづいた陛下を前に、若者がアグラで応じているのを見て仰天しました・・・。それを放送したテレビ局も非礼極まりありません。)
つぎに、
極楽能化弥陀如来ですが、「能化(のうけ)」とは、仏法の教授者・指導者という意味で、すなわち極楽浄土より今現在説法まします阿弥陀如来の異名で、如来の法徳を讃える意味と、もう一つは如来の教えを聞き抜きます、という我々(この場合、能化に対し、“所化”という)の決意が込められておると言えましょう。
所化を離れたる能化はましまさず、能化のましまさぬ所化もまた存在しません。親(能化)は子(所化)がいてこその親であり、子は親がいるから子であるのと同じです。
阿弥陀如来は「能化」として極楽浄土にいながらも、南無阿弥陀仏という名号になって我々「所化」と接点を持ちます。あたかも太陽の光が泥水に反射してきらめくが如くです。
親鸞聖人『教行信証』「行文類」には、元照律師の『弥陀経義』の文を以下のように引用されます。
「わが弥陀は名をもって物(衆生)を接したまふ。ここをもって、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり」(『註釈版聖典』180頁)
以上、まとめますと、讃仰作法のみならず、法要という儀礼は阿弥陀如来と我々とが時空を共有するということです。このことを僧侶はもっと説かねばなりません。葬儀の読経途中での私語や弔電披露をするな!!という趣旨は、聖なる儀礼空間に乱気流を生じさせるなという意味です。
称える僧侶も法要前には飲酒・喫煙はもちろんのこと、世間の悪口や不平は言わぬことだ。そういう口から如来の金言を出だすことは、如来に対する礼を失することになるが故に。

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2011/4/17
いよいよ親鸞聖人750回大遠忌(おんき)法要が始まり、予定通り、第1期が終了しました。東日本大震災の影響を意識させられた法要でした。
以前の記事にて「西本願寺は他宗のように自粛・延期せずに予定通り執行すべし」と主張しましたが、ひょっとして宗門幹部の方々は読んでいてくれていたのでしょうか?
・・・勝手な推測ですが・・・。
困難な状況にある人々の苦悩と共に同朋とお念仏を称える、という意義深い法要となりましたこと、聖人の末弟として感謝申し上げる次第です。浄土宗のように来年に法要を行えば、復興事業が本格化し、それこそ参拝どころではない状況になっていたことでしょう。
さて、このたびの法要では、新しい試みとして『宗祖讃仰作法』という和讃を主にしたおつとめが為されております。
中には「いまさら変わったことしないで、いつもの“正信偈”でエエんとちゃいまんのか?」と抜かす人々も多いと聞きますが、もったいないことです。なぜ聖人は晩年近くになって和讃を撰述されたのか、また何故、当法要において和讃に重きを置いたのか、その意図を尋ね聞くべきでありましょう。
本願寺のネットで法要中継が為されており、時間の許す限り視聴しておりますが、なぜこのようなお勤めをするのか、という説明があってもよいと思いました。法要第2期に期待します。
和讃は漢文調では困難ともいえる、日本人の心情に合致したといいますか、私たちの心に寄り添うべく優しい文体で以て大切な法義(教え)が盛り込まれています。和讃がブームとしてやってくるとも思います。
よって以後、当ブログにて『宗祖讃仰作法』(第1種)における和讃を味わい、私の聖人に対するオマージュ(讃辞)としたいと思います。

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