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なむあみだぶつ
2011/5/30
「666」・・・キリスト教では不吉な数字。
さすがにクルマの希望ナンバープレートでも見たことがない。
映画『オーメン』の主人公ダミアンの頭に記された恐怖のナンバー「666」。
新約聖書の『ヨハネの黙示録』の「第13章第18節」に出てくる逸話である。
しかし面白いことに、仏教・日本の文化においても「666」につながる数字がある。
仏教では「終末論」は説かれていないが、有名な『末法(まっぽう)思想』がある(現在は末法の只中)。末法の最後の方、56億7千万年後には弥勒(ミロク)菩薩が釈迦の次に仏と成って、この世で救世の法を説く、という。
さて、弥勒菩薩はミロク(6+6+6=18、もしくは3+6+9=18!!)であり、56億7千万年も足すと(5+6+7=18)になります。
ところで「聖徳太子」は弥勒菩薩に譬えられたのでありますが、太子ゆかりの法隆寺の秘仏である救世観音像の身長は、ほぼ180cmになっているそうな。
「18」は浄土真宗的にいえば、阿弥陀如来の本願が計48ある内、もっとも大事なのが 第18願 です。
一方、ユダヤ教のカバラという学問においては「6」は蛇を示し、蛇は「知恵・富・増殖」を意味するという。蛇とお金の関係は日本でも同じ(財布に蛇の抜け殻を入れると云々)である
。
金儲け・金融の象徴ともいえるホリエモンが居る東京の六本木ヒルズが六本木6丁目だから、「悪魔の巣窟」と考えるのも、あるいは日本の硬貨である「500円玉」「100円玉」「50円玉」「10円玉」「5円玉」「1円玉」、その全てを合わせると666円になり、日本の経済がいよいよ破滅の地獄へと向かう階段を降り始めたと見るかは・・・
あなた次第です!!
ちなみに私の誕生日
である9月27日も、
何と 9+2+7=18です!
マジメな浄土真宗の人からは、語呂合わせや偶然・迷信と言うだろうが、古来より数字は神秘性を秘めたものとして、偶然ではなくむしろ必然として、あるいは暗号として分かる者のみに伝えた(大衆に分かるとパニックになる)という可能性があるように思います。まぁ、言うたら神学(仏教学)・暦学・数学・天文学、これらに関わる連中は悪魔と紙(神?)一重 なのである!?

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2011/5/19
無碍光仏のひかりには
清浄・歓喜・智慧光
その徳不可思議にして
十方諸有を利益せり
『浄土和讃』(『註釈版聖典』566頁)
まず文字の校異について、
「无」と「無」ですが、親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」のお名号をしたためられる際に「南无阿弥陀仏」と書かれます。これは『蓮如上人御一代記聞書』第24条にて触れられています。
一、のたまはく、「南无」の字は聖人(親鸞)の御流義にかぎりてあそばしけり。「南无阿弥陀仏」を泥にて写させられて、御座敷に掛けさせられて仰せられけるは、不可思議光仏、無碍光仏もこの南無阿弥陀仏をほめたまふ徳号なり、しかれば南無阿弥陀仏を本とすべしと仰せられ候ふなり。
親鸞聖人は阿弥陀如来のことを表現するのに、光を用いた表現を好まれます。全部で12種類あります。出典は『無量寿経』、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』へと流れ、「正信偈」で、
普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
つまり、
無量光・無辺光・無碍光・無対光・炎王光・清浄光
歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光
となります。漢字で大体の意味がおわかりのことと思います。無限の光明が何らの障害なく十方諸有(あらゆる世界・時代の有情)に届いておるぞ、という意味です。
“阿弥陀如来の光明が・・・”といっても尚も抽象的なので、具体的に如来の徳を讃えられております。
以下の見解は評価が二分すると思いますが、私の理解では親鸞聖人とは非常にロジカル(論理的)な性格であられ、徹底的にテクスト(仏教典籍)を読み込まれて、如来の世界を我々に伝えんとされております。感覚的・直観的に物事を語るようなことはありません。
一方で浄土教はビジュアル重視といいますか、視覚的・情緒的感性をも重視されてきましたので、まばゆい阿弥陀如来の仏像(来迎仏としての)が有難がられてきたわけですが、それは方便仮門の世界で、第18の真実弘願の仏身ではないと聖人は言われています(「化身土文類」にて)。
既存の木仏・絵像の阿弥陀如来像では「光明性」を表現する手段としては乏しかったのではないか、という推論も可能だと思います。はたまた『臨終来迎』との混同も懸念されることでありました。浄土真宗は臨終来迎を否定し、平生業成を重視します。
では、なぜ寺院では今も仏像が依用されているのか・・・
奈良時代から寺院では木仏の本尊を安置すべし、というお触れがあったからでしょう。お名号を本尊としていたら、秘密結社の集会のように誤解される懸念があったのです。
ご案内のように、親鸞聖人は「帰命尽十方無碍光如来」「南無不可思議光仏(如来)」などの御名号を如来の御姿、本願の活動態として受け止められました。言葉である名号を通じて如来と私たちがつながっていく、という世界観は非常に興味深いではありませんか?
“如来とは何か”、そして“如来に救われていく私とは何か”、のあくなき宗教的実存の追究が聖人の最大の魅力です。その実現のためには従来の浄土教の常識を超えていかねばならなかったのは必然だったでしょう。
大遠忌法要、ということで親鸞聖人のイメージ(アニメなんかで特定のイメージを植えつけるのは反対だ!)が、好々爺に捉えられがちですが、常識を疑う非常に激しい気性の方だったと思われます。『熊皮の御影』の御顔↓が一番イメージに合致していると思われます。

本当に親鸞聖人のことを研究・広めようと発起せんとするならば、ずいぶんと自らの立場を犠牲にせねばならないことが多々あります。それが最大の私の悩みです。
「浄土真宗親鸞会」さんは“名号本尊こそが正しい”と主張されますが、私もその点では大賛成です。ただ、僧侶は「寺院」という何かと制約のある世界に生きておりますので、原理原則通りには行かないんですね。・・・私のような変わりモノが本願寺派の中にもおるということを知っていただければ嬉しいです。

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2011/5/14
超世無上に摂取し 選択五劫思惟して
光明・寿命の誓願を 大悲の本としたまへり
『正像末和讃』より・・・『註釈版』603頁
「超世無上に摂取し」
ご存知『重誓偈』の、
我建超世願 必至無上道
・・・我(法蔵菩薩)、超世の願を建つ、かならず無上道に至らん。
斯願不満足 誓不成正覚
・・・この願満足せずんば、誓いて正覚を成ぜじ(仏にはならぬ)。
の箇所をただちに想起せしめます。
前回述べたように法蔵菩薩(阿弥陀如来)の誓願は、苦悩の有情を摂取(救う)することです。地獄必定の煩悩深き私が、名号・信心の働きによって仏になるためには、法蔵菩薩でさえも、並み大抵の意思・修行ではその救いは実現しません。
超世とは、世の常識を超えた、の意。無上とはこの上ない、の意。
本願とは法蔵菩薩のマニフェストです。民○党とは似ても似つかない私(たち)への絶対の約束です。その約束はすでに果たされ、また今後も果たされ続けます。○主党は・・・
「選択五劫 思惟して」
せんじゃくごこう。選択とは善きものを取り入れ、悪しきを捨て去ること。元祖「断・捨・離」か?! この和讃での「選択」とは、法蔵菩薩が師匠である世自在王仏(ローケシュバララージャ)のもと、210億もの諸仏の世界を見学・取捨選択し、それ以上のかつてないさとりの世界(極楽浄土)を建立しようと計画を練られたというものです。これは以下の「正信偈」冒頭にあきらかです。
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所 覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓 五劫思惟之摂受 重誓名声超十方
その計画立案の時間は「五劫」です。
・・・?ですね、五劫とは諸説ありますが、劫とは長い長い時間の単位で、160キロメートル!!四方の岩に3年に1度、天女が舞い降り羽衣で岩をフワっと撫で、その巨大な岩が全て磨り減って無くなる時間を1劫とします。その5倍が5劫です。
さらにさらに!計画だけでは絵に描いた餅なので、それを成就するための修行(実践)が「兆載永劫」の時間が経過したというのです。1劫×1兆以上劫になりましょうか?
法蔵菩薩って、スゴーイ・・・じゃ、ないんです・・・
。
ここまでの時間とご苦労が無ければ、私が信心を得て、往生を遂げ最高位の菩薩と同じようにただちに仏に成らせてもらうことが出来ないほどの、煩悩・罪業を抱えているということの裏返しなのです。本願の深淵に近づけば近づくほど、私の慙愧の思いも深まれり、という救済者・被救済者の絶対対称的構造であります。
「光明・寿命の誓願を 大悲の本としたまへり」
法蔵菩薩の本願が計48種ある中で、第12願・第13願に当たるのが「光明無量の願」と「寿命無量の願」です。『教行証文類』「真仏土文類」の標挙となっています。つまりは真実の仏身、並びに浄土の真実性を証明するための基本の願となるところです。
光明無量とは阿弥陀如来の智慧の光明が宇宙の果ての果てまで照らすこと、寿命無量とは如来の寿命がエンドレスだということ。つまり「空間的無限性」と「時間的永遠性」を誓ったものです。
これら二つの盤石たる基盤の上に、如来の大悲心が成立しておる、
という、壮大な趣きのある和讃でした。

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