2011/5/3
第2期法要(5月9日〜16日)が始まるまえに和讃のお話を、と焦っていますが、また大事なネタが見つかったので、今回はそのお話を。・・・大遠忌は在野の平僧にとっても忙しいなあ。
みなさんはすでに新聞・雑誌等で「親鸞特集」のようなものを目にしておられると思います。いい機会なのですが、残念ながらその多くは取材不十分で中学生レベルのミスが散見されるという由々しき事態です。
西本願寺の写真を東本願寺と銘うったり、「往相回向」を「住相回向」と記し、そのまま“おうそうえこう”とルビを振る始末。確信犯的に間違っていると思われる。大いにバカにされていると思うが、本山の対応はついぞ聞かない。
さて、今回は「念仏で救われる・・・」といった類について、である。

世間ではかかる言い方が「悪人正機」と共に注目されてきて、それゆえに 「親鸞思想は悪の容認・垂れ流しで、世の秩序を乱す」 といった誤解を生んできた。
親鸞聖人は何処で「念仏で救われる」、なんて言ったのであろうか?冗談じゃあるまい?ナムアミダブツと称えるだけなら九官鳥でも出来るぞ!?
究極的に光明である阿弥陀如来が名号(南無阿弥陀仏・帰命尽十方無碍光如来など)の中に無上の功徳を包含せしめ、十方世界に発信し、私の心に名号が届いた様を信心といい、その状態からは自然と念仏が発せられる(他力の念仏)。その状態が死ぬまでも、死んでからは仏となり、慶びと安心が持続する状態を「救い」という、と定義したい。
難しいでしょう?
このように頭で整理するのは学者の仕事です。が、理解できなくとも救われていくというのが有難いポイントです。“カゼ薬の成分を知らなくとも、服用せばセキは止まる”のと同じ道理です。
根拠は以下の文です(むろん、ほんの一例)。
弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽し、下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて往生を得易し
(「行文類」、善導大師『往生礼讃』引文・『註釈版』165頁)
徳号(名号)の慈父ましまさずは能生の因闕(か)けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖(そむ)きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき)にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。 (「行文類」『註釈版』187頁)
十方諸有の衆生は
阿弥陀至徳の御名をきき
真実信心いたりなば
おほきに所聞を慶喜せん (『註釈版』560頁)
真実信心うるひとは
すなはち定聚のかずにいる
不退のくらゐにいりぬれば
かならず滅度にいたらしむ(『註釈版』567頁)
(和讃は『宗祖鑽仰作法』に引用されています。)
・・・ああ、今から法務(お参り)に出かけるので意を尽くせないが、要は私たちは名号・信心で救われるのであって、念仏(称名)は事後の報恩行にほかなりません。新聞記者さん方はそこそこの大学も出ておられるのですから、もっと丁寧な取材をなさるよう、お願いいたします。「東スポ」みたく、安易な見出しで気を引いてもらってはちと困ります。

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