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なむあみだぶつ
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2011/6/27
さてさていきなりの猛暑の中、電力会社からの節電要請が来ておりますが、私の立場としては、政・財一体の万策が尽きての上での節電要請ならば国民として協力の用意があるが、基本的に無視する構え。
だってウチにはソーラーが2系統あるしぃ・・・
現在の日本の窮状を打破する最も手っとり早い方法は「サマータイム導入」であろう。これを政府・財界が協力して進めていただきたい。

↑東芝創業者・田中久重作 『万年時計』
朝の4時半から明るくなっているのに9時始業なんて愚の骨頂である。2時間くらい時間を早めても何らの問題もないだろう。
涼しい内ならばクーラーの使用は減るし、4時終業にすれば、時間があるから買い物や「ちょっと一杯」の客足も伸びるだろう。時間の余裕は人生の余裕でもある。趣味や勉強、家族サービス、健康増進に大いに時間を活用すべきだろう。
・・・そうなると、経済が動きだします。被災地への義援金もどうでしょう、百カ日も過ぎたし、使い道も定まっていないようなので、もうしないつもりへと気持ちが傾いています。「自粛」という言葉ももう消えたし、その代わりにチャッチャッと仕事を終えて遊びに出掛けよう。それが回り回って被災地への支援となるのですが、それが国民のレベルでよく理解されていないようです。
仏教的にいえば「縁起」の輪を広げてお互いが豊かな心を持てるように、今、はじめようということなんですが、・・・要はみんなマジメが過ぎるんですね。1円でも寄付することのみが尊いことだと偏見し、被災者の心に寄り添い、顔色をうかがって慎ましさを演じることのみが、ケアだと思っている。
もっと広い視点で、ダイナミックに考えないと !!!。
「売り手よし 買い手よし 世間よし」
という近江商人の有名な言葉がありますが、蓮如上人以来の浄土真宗の影響の濃い土地に育った商人は、本当に世の中の相互依存性、機微というのを体得していたんだなあ、と感じ入るのであります。
・・・あぁ、やはり管理人は僧侶に向いていない人種ですね。

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2011/6/24
ここ半年くらいであろうか。
20代〜30代で亡くなられた方への弔いの機会が多い。
病死や突発性のもの、自ら命の幕引きをした方々。
死因はいろいろあろうが、我々僧侶から見れば「人は、生まれたから死ぬんだ」という根源的事実を認識するのみだ。死因は大した問題ではない。自殺(自死)といえども、取り立てて特別視することは無いと思うのである。
さて、今日のご葬儀は28歳の女性で、それはそれは美しい方でした。御遺影は釈由美子と見まごうばかりの、優しい笑顔の方でした。
年寄りの葬儀では、私はもはや何も感じないし、涙を流す人も今ではごく近い血縁者のみで、そんな場での法話にて「この世は無常である」などといっても全く通用しない。年寄りから順番通り死んでくれるのは「無常ではなく、常」だからだ。そこに仏法の入り込む余地はあまりないだろう。
しかし、若い方の死、すなわち親が子を送るという「逆縁」に際しては、むしろ葬儀の意味の根源を知らされることである。詳しくは書かないが、肉親の慈愛とは海よりも深く、空よりも広大だ、と感じさせられっぱなしで・・・。
梅雨の最中の不気味なまでに青く澄んだ空とぬるい風・・・
ああ、なんなんだ?この矛盾に満ちた世界は!
人さまの生と死の間に立たされる、我々僧侶という存在は、私にはやはり荷が重い。プロとして今まで懸命に責務を果たしてきたつもりだが、かけがえの無い故人・遺族をお弔いする能力も資格もない、と思う。

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2011/6/18
6月度の法要は終了しましたが、もう1首、やっときます。
第8首
名号不思議の 海水は
逆謗の屍骸も とどまらず
衆悪の万川 帰しぬれば
功徳のうしほに 一味なり (『高僧和讃』曇鸞讃 『註釈版』585頁)
これも「正信偈」の「凡聖逆謗斎回入 如衆水入海一味」と同じ意味です。
人の生涯を1本の川に譬え、仏の浄土の世界を海に譬えられます。
川の終焉(人の死)は、すなわち海(浄土)への入り口。
河川の水はまさに禅宗などで「行雲流水」と言われるように、なすがままに流れていきます。そう、櫓を漕ぐなどといった自力を加えなくても、水そのものの運行に身を寄せること(他力)で海へと流れていきます。「阿弥陀如来の差し出した船に乗るか?」・・・「はい、疑いの心がありませんので乗らせてもらいます」・・・これが信心です。
何となく浄土真宗特有の考え方が分かってこられたでしょうか?
海の持つ功徳として、江戸宗学では
@ 同一齦?味(ドウイツゴン?ミ)・・・川水は、同じ塩味(うしほに一味)になる。
A 不宿死骸(フシュクシガイ)・・・・死体を海岸に留めない。
とが指摘されています。
これは、阿弥陀如来の救済のはたらきを、海のはたらきに譬えられているのです。
非常に分かりやすい、美しい譬えだと思います。優れた宗教家というのは、例外なく譬え話が上手です。どういう相手に仏法を聞いてほしいのか、よく研究されていると思います。
言わんとするところは、
@’いかなる性質の人間も名号を聞き信心を得れば、往生成仏し無上の功徳を得る。
A’本願力は最終的には、五逆・誹謗正法といった、仏教を否定するものをも包み込む。
というものです。
ただし、五逆(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)や仏法を批判する者も最終的に救われると説かれるのは、よくよく注意してください。これはあくまで救済者としての阿弥陀如来の大慈悲心の表れであって、決して悪行を許しているわけではない、ということを。
ああ、タイムリーな話題としては原発の汚染水処理が上手くいっていません。
いくら大らかな海といえでも、人間の煩悩が産み出した悪魔の産物を浄化せしめる能力はありません。放射線は逆謗の死骸、煮ても焼いても食えない、というのはまさにこのことでありましょうかね??汚染水流出も時間の問題でしょう。悲劇の第三幕が始まります。

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