以前のことですが、諸々の寺院復興事業の仕上げとして【真光寺沿革】看板を門前に設置しました。
歴史の記録は大切だと思います。
なんとなく口頭で伝わっていることも、世代を跨ぐと風化してしまいますから。
文面は門徒総代方からも御助言いただき、よいものが出来ました。制作は看板屋さんにお願いします。
これは全てのご寺院様におすすめいたします。
未来の為に、歴史は省みられるべきです。
※費用は10万円程度です。
以下、文面
恵日山 真 光 寺 沿 革
浄土真宗本願寺派(西本願寺)
当寺の位置する「日置荘(ひきしょう)」とは、大和出身の日置氏が治めた「奈良興福寺の荘園(古代貴族や社寺の私領地)」のことである。
かつて近隣の萩原神社には神仏混淆として「萩原寺」が存したが、後に六ヶ寺に別れて近隣の村々に移った。その一つが真光寺の起源と考えられる。その際に萩原寺の名を残し、縮めて地名としたのが「原寺」である。
『寺社御改帳』【元禄十四(一七〇一)年、萩原神社蔵】には、寛文八年からの歴代である圓海・春貞・玄照・祐山・潤泰の名が列挙されているがこの時点では本堂は存在しない。
以後、明治初期の越間改蔵住職を最後に、廃仏毀釈の影響もあってか真光寺の歴史は一端途絶えるも、昭和十七年に木村忠雄が入寺し今日に至る。
現存する半鐘には享保八(一七二三)年の銘が刻まれる。鋳造は大谷相模掾製(現大阪市東成区)の名品である。本堂横のクスノキは平成三年に堺市指定保存樹木に指定された。
天明三(一七八三)年四月九日、大鳥郡下石津村・浄念寺より移築された本堂は、平成二十一年三月に奈良の薬師寺修復等で活躍した宮大工、西岡常一の弟子である宮村樹棟梁のもと平成の大修復を遂げ、真光寺門徒・信徒・寺族・原寺町水利組合が和合し、平成二十二年末までに「庫裏」・「顕真庵」建設事業を主とした【親鸞聖人七百五十回大遠忌法要】記念となる一連の諸事業が成就した。
かつて当地は江戸時代には「河内国丹南郡日置荘原寺村」と称され、明治二十二年に近隣の村々が合併し「日置荘村大字原寺」となり、昭和二十六年に町制実施、昭和三十三年には堺市に合併され、平成十八年に堺市東区となった。
平成二十三年 四月
恵日山 真 光 寺

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