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なむあみだぶつ
2011/10/30
人が死ぬと、果たしてどうなるのか?
いや「私」死ぬと、どうなるのか、といった疑問・不安が尽きません。
最近、葬儀に触れて実感するのは、一昔前の葬儀(言わば家族イベント、町内付き合いの一つ)と違って、その意味を問われる御方が確実に増えてきておられるということです。
特に団塊の世代に目立ち、近代的な高等教育を受けられ、固定的・閉鎖的なムラ社会ではなく、多様な人々と接触する都市生活を送ってこられた方々がそうです。
「本願を信じ、念仏申さば浄土に生まれて仏に成る」
浄土真宗の定説ですが、額面通り伝わるかといえば関係者以外には全く通用しません。小惑星に探査ロケットが飛んでいって石を回収する時代に、西方浄土とは何を指すのか・・・。
宗教的な課題に対し、理屈をこねて説明することが絶対必要であるとは思いませんが、
問いがある以上、それに答えていかねばならないでしょう。
既成仏教教団では、枝葉の部分が微細に説かれるも、そもそも仏教とはいかなる教えなのか、という視点が十分ではありません。
特に来世観・生命観といった問題は、お釈迦様時代の方がより熱心に議論されていたんではないか、という思いを改めて強く持ちます。仏教は知的な興奮を喚起し、情的な安心を得る教えです。
以下のサイトは多岐にわたって、仏教への疑問にていねいに答えています。ご参考までに。この管理人は若く、センスのいい勉学を重ねてきた方に違いありません。
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Oh My Buddha

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2011/10/24
久しぶりの住職の墨絵法語を。
(真光寺ホームページに今までの作品を掲載してあります。)
あいだみつを氏 の言葉です。
野田首相の「どじょう・金魚」云々、のあいだ氏です。
この言葉は実に面白く、示唆に富みますね・・・。
「布施・慈悲・執着・貪欲・利他」などといった、仏教の重要な概念がこのおだやかな短文に詰まっています。
これを国会の各種予算委員会の際に皆で読み上げるとよいでしょう。人間の欲望の暴走を止められるのは人間ではなく、人智を超えた仏智なのだから。
実はこの絵は、参詣者用トイレ(女性用)に掲げてあるのですが、これを見てトイレットペーパーの補充回数がめっきり減ったとか減らないとか・・・。

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2011/10/19
『宗祖讃仰和讃(第1種)』の最後、回向文としての和讃です。
難解な箇所ですが、お付き合いください。
回向(=廻向)句とは、読経の最後に読誦される句で、皆さん御馴染みの「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」 がその代表格です。
回向とは梵語でパリナーマ、功徳を第3者へと振り向けること、具体的には弥陀の功徳を自分自身のみならず、あらゆる人々に振り向けることであります。
数学的にいえば、ベクトルの転換を言います。・・・多分。
回向とは自利(智慧)・利他(慈悲)円満の阿弥陀如来の法徳を示すものであり、この回向の構造があるからこそ、未来永劫の凡夫が救われていくのです。
南無阿弥陀仏をとけるには 衆善海水のごとくなり
かの清浄の善身にえたり ひとしく衆生に回向せん
カンのよろしい方はこの和讃が龍樹菩薩による『十二礼』の文、すなわち
「我説彼尊功徳事 衆善無辺如海水 所獲善根清浄者 回施衆生生彼国」と同義なることを察知されたことでしょう。
ここで是山恵覚和上の解説を紹介しておきましょう。
前半は法徳深広を嘆ず、後半は自らを全うし化他を明かし、本願の名号を開設する。その功徳、深広無辺にして、海水の深広無辺なるがごとし。かの名号の真実清浄の功徳、全く我が身に領せり、その所領の全てをもって、濁世の衆生を開導すとなり。すなわち七祖が自得の法を以て吾人衆生を化度せられしという讃意
と説明されます。つまり、阿弥陀如来の徳は海のように深く広く、その功徳は水のように我が身にも浸みわたる。如来の功徳水が七祖にも満ち、国や時代を超えて私たち一人一人の乾いた心に功徳の潤いをもたらす、というものです。
巧みな譬え、有難い御教示ではありませんか??

↑是山恵覚和上 と その筆跡(「煩悩障眼雖不能見、大悲無倦常照我身」)
今後、和讃を本格的に学習されたい方は、是山和上の『三帖和讃講義』が第1級の学習資料となりましょう。これは『真宗叢書』別巻に掲載されています。
こういう真宗の基礎研究書を大枚はたいて購入しておいて良かったと思います。今までこのような書物に数百万円の投資をしてきました。その果実は今後一生かけて味わっていきたいと思います。書物は借りているようではモノになりません!
門信徒から預かった「お布施」はこういう使途に回向し、さらには門信徒の教化、精神的充足へと回向するのが坊さんの仕事である。そのように浄財を回していくことを「仏教経済学」といいます?

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2011/10/16
さて七高僧最後の源空上人です。法然房ともいわれます。
本日の本山での法要は、浄土宗(知恩院)関係者がご焼香に来られていました。
おそらく法要の盛大さ・厳粛さを見てビビッておられたと思います。
そんな偶然もあってか、今回は法然房源空聖人のお話。
法然上人は比叡山でとにかく優秀であられ、一切経を五回読誦、法相・華厳・真言等、仏教の学問をマスターされた方でしたので、別名『智慧第一の法然房』とも呼ばれておりました。ゆえに、和讃では「智慧光のちから↓より 本師源空あらはれて」と讃じられたのでしょう。つまり、源空の智慧とは如来の法徳が具現化したものだ、と。
七祖最後なんで、料紙にしたためてみました。字の構成が不満ですが。
智慧光のちからより 本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ 選択本願のべたまふ
ここでは前回に引き続き、善導和尚のときお話しましたように、阿弥陀如来の化身として法然上人を捉えておられます。親鸞聖人はこの化身という表現がお好みであり、祖師方の人格の向こうに透けて見える阿弥陀如来の徳を鑽仰されたのでありましょう。人間そのものを拝みたてたまつったのではなく、あくまで如来を讃えておられるわけですね。
この感覚はとても大切で、たとえば大遠忌法要だからといって、親鸞聖人・御真影様!と拝するのはある種の誤解を招き得るでしょう。覚如上人が『報恩講式』にて言われておるように、阿弥陀仏の化身としての御真影さま、とお慕いして念じなければ、それこそ念仏にならないわけです。・・・てなことを京都でいったらエラい怒られますので、ここでの発言に止めておきますが・・・
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また「浄土真宗をひらきつつ」・・・これも誤解があるところですが、教科書や世間の常識にあるような、親鸞聖人は浄土真宗を開いた方ではないという証拠の一つがここにあります。浄土真宗とは、真言宗・天台宗というような宗派名ではないのです。親鸞聖人は亡くなるまで「我は法然門下の一浄土宗徒」との立場を一貫されています。
浄土・阿弥陀如来の本願の教えを真(マコト)の宗(ムネ)とする、唯一無比の拠り所とする、という意味がここでの浄土真宗の意味であります。
選択(せんじゃく)本願とは、選択とは文字通り、選りすぐりのという意。
数多くの仏道修行の中、救われようの無い私たちが救われていく手段は念仏にあり、ということを数ある経典の中で『無量寿経』を、『無量寿経』の中からは四十八願を、四十八願からは第十八願がもっとも尊い仏道実践の相であるということを、見定められたということです。それは法然上人が選択されたのではなく、阿弥陀如来が選択をされた、とうかがうのです。
次回は、あともう1講、回向句も味わってみましょう。
それで『宗祖讃仰和讃講義・第1部』は終了します。

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