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なむあみだぶつ
2012/1/16
いよいよ【親鸞聖人七五〇回大遠忌法要】ご正当の大逮夜・そしてご満座を迎えました。
私も1月15日、本山に出向き、ご満座前日の御荘厳を整え終わった御影堂にお参りしてきました。

・・・清澄な空気感が素晴らしい。
聖人ご往生の地、「角坊(すみのぼう)」へも出向きました。
本願寺ではこの最後の夜に通夜布教という、文字通り朝までのリレー形式での法座が勤まります。本願寺の通夜布教は熱気あふれるくらいの満堂でありました。
そして、当法要期間中、不勉強ながらも、今回ご依用の【宗祖讃仰和讃】和讃講義を続けてまいりましたが、ちょうど最後になりました。時まさに通夜布教の話題と重なる、という妙縁にも相成りました。・・・もはやくどくどした解説は不要でしょう。
弥陀大悲の誓願を
ふかく信ぜん ひとはみな
ねてもさめても へだてなく
南無阿弥陀仏を となふべし
・・・如来の大悲に身命を委ねる人であるならば、寝ても起きていても、何をしておっても、南無阿弥陀仏を心にかけて、慙愧(反省)と感謝の日々の生活を送らねばならない。

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2012/1/14
弥陀の回向成就して
往相・還相ふたつなり
これらの回向によりてこそ
心行ともにえしむなれ
『高僧和讃』曇鸞讃
当和讃は、ちょっと長い解説を要します。
回向とは・・・、一般的には「僧侶が読経をし、故人の菩提を弔う」、という意味で理解されていることが多いことでしょうが、浄土教の発展過程、究極的に親鸞聖人の理解になると、全く異なった意味になります。
回向(=廻向)とは【回転趣向;えてんしゅこう】の略語で、「功徳・力を振り向けること」の意味となります。すなわち、自分自身の為になれば(自利)と思って為してきた仏道修行の功徳を、今度は第3者の為に目的を振り向けること(利他)を言います。
七高僧の第2祖・天親菩薩は、著『浄土論』にて、浄土に往生するためには「五念門行」を修すべきとされました(※往生した後には、仏に成るための五果門行が待っている=まだ「往生即成仏」思想は無い。)。
@ 礼拝門:阿弥陀仏を礼拝すること
A 讃談門:阿弥陀仏の徳をたたえること
B 作願門:一心に浄土に生まれたいと願うこと。
C 観察門:阿弥陀仏・菩薩・浄土の様相を思い浮かべること。
D 回向門:自己の功徳をすべて衆生に振り向けること。
天親菩薩の理解では、五念門行は自力ですが、第三祖曇鸞大師の理解では、この五念門行は、他力(=阿弥陀如来が為した行)であるとの洞察に達したのです。
ここに極めて重要な浄土教思想の展開が伺えます。
確かに五念門行は順を追った、分かりやすい行ですが、我々はCDはおろか、AもBも或いは@の礼拝することさえもままならない性分の持ち主です。
それを見透かした阿弥陀如来は、仏に背を向ける凡夫をも何とかして仏に成らせようと、ついには、本来私たちが修行すべきことも、一手に引き受けられ、代わりに修行をしていただいたのだ、と受け止めていくのです・・・。
そして如来の側で完成させられた功徳を名号・南無阿弥陀仏として濃縮され、私たちに振り向けられた(回向された)のです。このことを【本願力回向;ほんがんりき えこう】というのです。
往相回向とは、この世から浄土へと向かう本願力の方向性を、還相回向とは、浄土からこの世へとつながる本願力の方向性を示しています。
浄土という世界は、故人が安らかにお眠りいただく世界ではなく、仏に成って活躍される世界です。阿弥陀如来の部下としてお手伝いをする立場として、この世に何らかの姿にて還ってくるのです。
往相回向と還相回向は当和讃にあるように表向きは二つですが、コインの裏・表のように二つは一つであり、一つは二つです。それを「正信偈」では【往還回向由他力】とされます。
心行ともに えしむなれ
・・・心行とは、心は信心の心。行は五念門行の行。
信心の内実はこの五念門行であり、五念門行は信心に凝縮されているのです。
ですから「南無阿弥陀仏」は、私が称えて仏に向ける言葉ではなく、阿弥陀さんがすでに五念門と五果門行を成就され、その円満な結果を私たちに回向された。・・・その結果をすでに受けとりました、届きましたよ、ということを阿弥陀さんに報告・感謝する応答の声なのです。
私が仏に対して呼びかける声ではないのです。呼びかけるのはいつも阿弥陀さんなのです。名号を聞き、名号で返事をする。阿弥陀さんに請求書を出すのではなく、領収書をお渡しすることが大事ですね。
ゆえに「南無阿弥陀仏を称えましょう」というのは、順序がちょっとおかしいですネ。まず第一に「南無阿弥陀仏を聞きましょう」、とするのが正しい、と私は思う。このことが分からないと自力と他力の峻別がつきません。
それが親鸞聖人の言うところの回向観なのだ、と私は味わうのです。

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2012/1/11
さて、お久しぶりの『宗祖讃仰和讃』音楽法要引用の和讃解説です。
弥陀の本願信ずべし
本願信ずる ひとはみな
摂取不捨の 利益にて
無上覚をば さとるなり 『正像末和讃』
「利益」という言葉が出てきます。
いわゆる何処そこの寺社に参ると、何らかの御利益が得られるという利益と同じ言葉です。
しかしながら、浄土真宗では、即物的な御利益を得るとは一切語られておりません。その主たる理由としては、
@ 因果の道理に反することだから
・・・参れば腰痛が治癒する、というのは医学(科学)的におかしい。痛みの治癒は迷わず病院などへ行きましょう。
A 仏さまを我欲実現の道具・手段化してしまうから
B 煩悩をコントロールするはずの仏教が、煩悩を恥じることなく認めてしまうことになるから・・・これは矛盾にほかならないですね。除夜の鐘ついて煩悩を消して、1時間もしないうちに神社でお祈りすることに何も矛盾を感じない人には何言ってもムダですがね・・・。
・・・かといって、浄土真宗にはご利益が無いのか、といいますと、実はあるんです。最高の御利益があるんです。教行信証「信文類」には
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。
一つには冥衆護持の益・二つには至徳具足の益
三つには転悪成善の益・四つには諸仏護念の益
五つには諸仏称讃の益・六つには心光常護の益
七つには心多歓喜の益・八つには知恩報徳の益
九つには常行大悲の益・十には正定聚に入る益なり
とあるのがそれです。
端的にいえば、私たちが阿弥陀如来の智慧によって、真実と虚仮不実の違いを知らされ、慈悲によっては身心を護られ、未来に仏に成ることが確定した位につき、以後、恐れなき安穏なる日々を過ごせるというご利益です。
・・・僧侶の方から、このことをもっと積極的に説くべきではないでしょうかね?みんな分かっているようで分かってないし、伝わっているようで伝わっていない。念仏や信心の有難さは説けども、それが各々の生活の価値観と結びついていないと思います。
本願信ずる ひとはみな
摂取不捨の 利益にて
無上覚をば さとるなり
◆摂取不捨、・・・阿弥陀様が私たちをおさめとって捨て去ることはない。
◆無上覚をばさとる・・・この上ない最高の悟りの世界を煩悩の身そのままで得ることができる。
如来様が、常に私と共にいてくださる。
これ以上の御利益が一体、何処にあるというのでしょうか?

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