2012/2/27
このところ更新が遅くなり、自省しております・・・。
2月27日(月)朝日新聞夕刊の記事
【他力念仏 揺れる解釈】
・・・こういう記事をネタに議論することは真に楽しいデスね、

今回は(今回も!?)ちょっと堅苦しいことを言いますが・・・
親鸞聖人を研究する人は、浄土真宗の僧籍を有する龍谷大学・宗学院など内輪の関係者のみならず、在野の研究者ももちろん多数いらっしゃいます。
率直に申し上げて、前者による研究はもはや限界が生じています。・・・師弟関係が堅固な環境ゆえに、新しい解釈や方法論が出てきにくい環境があり、現代の諸問題に対応できません。なぜならば新たな解釈を出すということは、師匠を否定することにつながるからです。これには伝統的な信仰に集う柔順な人々を養成することで、宗門の政治的安定に寄与するところが大きい、という利点もあります。江戸時代の法論があった時に、本願寺は辛酸をなめてきましたからね。
しかしながら、今日の世界のように多元的な価値観が行き交う環境においては、もはや宗門内の文法というか、思考回路が通用しないことを日々感じております。
今回の記事は東大名誉教授でもあり、国際日本文化研究センター教授の末木文美士(すえきふみひこ)先生による寄稿ですが、より幅広い視野での研究が必要であるとの主張です。
「研究」といえば、誰もがそれにひれ伏す、といったイメージがありますが、何のことはありません、文系の学問の場合、いかなる「研究」であれ、何千枚の論文をしたためようとも、それは一つの「仮説」に過ぎず、いわば「解釈」の一端に過ぎません。
今日の仏教研究は、「信仰の社会性」がより一層注目されているといえるでしょう。(「信心の社会性」などと言わないように!)
具体的には【東日本大震災・原発事故】のような災害に対して、主体的に仏教者が如何に関わっていくのか、といったことに、どう対応すればよいのか、という関心です。
従来の聖典をベースにした文献研究、バチカン的な教条主義(頭デッカチな)的な解釈では手も足も出ない問題にぶつかっています。・・・「親鸞なら原発問題にどのように対応するのか」、といったことを真顔で考えている人もいますが、まさにそのような発想が意味を為さないということです。
私はもはや「浄土真宗ではどうのこうの、親鸞聖人はこう言っている云々」、というアプローチでは社会の諸問題には通用できないと考えます。宗派の別という中世的な枠組も、今後は体を為さないでしょう。(・・・今、本願寺では「宗派と本願寺」を分離するという問題でワーワー言ってますが、そういうケツの穴の小さいことを言っているからダメなんです)
今こそ、私たちが自信と誇りをもって取り組んできた方法論を再構築すべき時でしょうか。
仏教は元来、決して教条主義的なものではありません。時代や民族によって種々に、そして平和的に受け入れられたきた宗教はほかにありません。宗派・学閥を超えて叡智を寄せる機会が訪れないものでしょうか?

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2012/2/3
大雪・厳寒のニュースと共に、訃報が入り通夜・葬儀に出向かれることが多いことでしょう。
ニュースでは「吹雪のため、車が立ち往生しています・・・」とのコメント。
これを説教に使わない手は無い!!
世間でいうところの往生とは、往き場所を失い、身動きの取れない様子のことをいいますが、元来全く意味の違う言葉です。
【他力本願】然り、【悪人正機】然り、どうして言葉とは間違った意味での方が広く伝わるのでしょうか?それは言語学的にどういう現象なのか、非常に気になるところです。
往生とは、浄土思想の根幹であります。この穢れた世界では自身のまともな修行もままならず、他者を救い取るという利他行も出来ないから、清浄なる国土に赴き、仏道修行に専念することを意味しました。
往生とは文字通り、「往き、そして生まれる」ということですから、先の【立ち往生】のような閉塞された世界観とは真逆です。そこにこそ救いの喜びがあるとも言えるでしょう。往生の業因が決定するための手段が信心・念仏です。
念仏を称える身と成ることが救いである、「ナンマンダブ」と称えることが有難いといわれても、・・・どうもピンときません。有限の命を持つ身が、往生という無限の世界への希望・確証を得ることができた、未来の不安が消えたこと(後生の一大事の解決)が有難いのではないかな?と思います。
あえてこういうことを申しますのは、往生の意味が尚も正しく理解されていないこと、念仏を真剣に称える人であっても「死んだら天国」、みたいなことを言う人が多いからです。
真宗の坊サンの仕事は、浄土への水先案内人のような仕事ですから、まずは方向性を示すべきであろうと思うのです。・・・中途半端に社会問題に首を突っ込んだり、難しいことばっかり言って、結局浄土真宗の何も伝わっていないではないか!と思わずには居られません。
・・・死んだのではない、生まれるんだ。
・・・通夜は人間としての卒業式、葬儀は浄土学園の入学式。
・・・人は骨には成らない、仏に成る。
・・・夢から目覚めて夢であったと気づくように、人は命終えて仏に成ることで、人生が幻であったと知る。
・・・みたいなことを浄土の祖師方はお示しであります。葬儀はやっぱり【お別れ会】ではないんで、参列者の目を覚ますような切れ味のいい話をしないといけないと思いますネ。

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