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なむあみだぶつ
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2012/6/27
お参り先でこんな言葉を紹介されました。

最初の文字は見慣れない文字ですが、四頭立ての馬車の意味だそうです。
出典は『論語』で 「駟(し)も舌に及ばず」 と読みます。
最も速い四頭立ての馬車で追いかけても、舌の速さには及ばない。つまり、一回口から出た失言は、どうしても取り返しがつかないことを言います。
現代風に譬えれば、
「フェラーリFFも(←リンク)、М主党の政策変更に及ばず」といったところか・・・

フェラーリFF。同社初の4輪駆動モデル。
門信徒の方から、僧侶に対してこのようなお言葉を紹介されるということ・・・年長者から若輩者へという構図では当然のことでしょうが、ついつい上から目線で物を語ってしまう私には、とてもありがたい言葉として受け止めました。

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2012/6/21
田植えもほぼ終わり、雨の恵みを受けて緑まぶしい季節となりました。・・・と、同時にやっかいな雑草に悩む人も少なくありません。
植物学者でもあった昭和天皇は、侍従と皇居を散策されていたときに、侍従が
「陛下、雑草が増えてきましたね」
というと、すかさずに、
「あのね、“雑 草”という名の植物は無いんだよ」
と言われたといいます(昭和天皇は“草食系男子”の先駆けだったのか?!)。

陛下はここで植物学の講義を始めようとされたのではないでしょう。
一本一本の草を人間に譬えてみてはいかがでしょうか。
どんな人にも固有の名前や個性がありますね。
パスカル(17世紀の仏哲学者)の【人間は考える葦(あし)である;か弱いがしっかりと生きている】という名言も連想させます。
ひるがえって、浄土真宗の世界では苦悩に生きる我々を「仏=如来」に対して「凡夫;ぼんぶ」と称します。仏さまは樫(カシ)や欅(ケヤキ)のように強い存在でありますが、我々は名もなき1本の凡々たる浮き草のようです。
しかしその1本の浮き草も、縁あってこの世に生じ、何らかの社会的役割を担って懸命に日暮しを送っています。たとえ「雑草」とさげすまされても、今日を生きているのです。

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2012/6/16
先の記事には「拍手」をたくさんいただきましてありがとうございました!
さて、今回は位牌(いはい)についてのお話。
よくある話ですが、葬儀を他寺院でつとめ、その後の供養を別の寺に任せるというケース。
(いろいろ事情があるでしょうが、葬儀を勤めた寺はその後の法事も責任もってやるべきでしょうよ・・・。)
で、そのアウェーでの満中陰で出くわしたのがこのケッタイな白木の位牌。

???
字は美しいので、位牌に直接書くのをためらったとは思えません。
浄土真宗では位牌を用いない、と言われておりますが、慣例として49日を迎えるまでは白木の位牌を用いるのが一般的だと思います。結論からいって、紙に書こうが板に書こうが大差は無いではないか?ということです。・・・葬儀を執行した住職の苦悩がこの位牌に表れていますね・・・。
真宗で位牌を用いないのは、礼拝対象としての阿弥陀如来を差し置いて、位牌そのものが礼拝対象になることを避けてのことです。・・・と言ってしまっては身も蓋もないので、より遺族の心情を忖度するならば、葬儀の際に位牌を抱いて歩くのを見ると、位牌に故人の人格が移行すると思ってのことでしょう。それを「真宗では位牌はいらない!」と指摘するのは大人げない、と言うか、デリカシーの無さが僧侶として失格、・・・と言い切る私も大人げないのかも・・・。
そもそも一連の葬儀には、地域性や歴史的要素が混在しており、これが正しい真宗の葬儀だ、なんてのは存在しないのです。
特に影響の大きいのは曹洞宗(禅宗)の思想です。禅宗は中国で発展したので、その過程において儒教の影響を受け、位牌を用いたのです。そう、位牌は中国のものです。
導師の脇に座す僧侶を真宗でも「諷経(フギン)」といいますが、これも禅宗用語ですね。
・・・興味のある方は【没後作僧】でいろいろお調べください。
あと、この位牌の方は女性でした。
つまり「尼」の字が付与されていないのですが、これも近代社会的な男女平等論と伝統的な男・女の区別を混同した悪例の一つ。
確かに往生して仏になったら男女の別は無いですが、生きているときは男・女の別があるので、「尼」という字を用いてなんらの問題はありません。

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