2012/6/16
先の記事には「拍手」をたくさんいただきましてありがとうございました!
さて、今回は位牌(いはい)についてのお話。
よくある話ですが、葬儀を他寺院でつとめ、その後の供養を別の寺に任せるというケース。
(いろいろ事情があるでしょうが、葬儀を勤めた寺はその後の法事も責任もってやるべきでしょうよ・・・。)
で、そのアウェーでの満中陰で出くわしたのがこのケッタイな白木の位牌。

???
字は美しいので、位牌に直接書くのをためらったとは思えません。
浄土真宗では位牌を用いない、と言われておりますが、慣例として49日を迎えるまでは白木の位牌を用いるのが一般的だと思います。結論からいって、紙に書こうが板に書こうが大差は無いではないか?ということです。・・・葬儀を執行した住職の苦悩がこの位牌に表れていますね・・・。
真宗で位牌を用いないのは、礼拝対象としての阿弥陀如来を差し置いて、位牌そのものが礼拝対象になることを避けてのことです。・・・と言ってしまっては身も蓋もないので、より遺族の心情を忖度するならば、葬儀の際に位牌を抱いて歩くのを見ると、位牌に故人の人格が移行すると思ってのことでしょう。それを「真宗では位牌はいらない!」と指摘するのは大人げない、と言うか、デリカシーの無さが僧侶として失格、・・・と言い切る私も大人げないのかも・・・。
そもそも一連の葬儀には、地域性や歴史的要素が混在しており、これが正しい真宗の葬儀だ、なんてのは存在しないのです。
特に影響の大きいのは曹洞宗(禅宗)の思想です。禅宗は中国で発展したので、その過程において儒教の影響を受け、位牌を用いたのです。そう、位牌は中国のものです。
導師の脇に座す僧侶を真宗でも「諷経(フギン)」といいますが、これも禅宗用語ですね。
・・・興味のある方は【没後作僧】でいろいろお調べください。
あと、この位牌の方は女性でした。
つまり「尼」の字が付与されていないのですが、これも近代社会的な男女平等論と伝統的な男・女の区別を混同した悪例の一つ。
確かに往生して仏になったら男女の別は無いですが、生きているときは男・女の別があるので、「尼」という字を用いてなんらの問題はありません。

5
1 | 《前のページ | 次のページ》