2012/10/21
季節柄でしょうか、訃報をよく耳にします。
そこで気になるのが、「コウデン」について。
コウデンには「香典」と「香奠」とがありますが、正解は「香奠」です。
諸橋轍次『大漢和辞典』巻3・600頁には【奠】の解釈として、
@物を供えて祭る。[乃至] Gすすめる。ささげる。たてまつる。
と説明されます。一方の香典の「典」には、そのような意味がまったくありません。・・・「典」は当て字と思われます。
「香奠」は文字通り、お香を仏前に捧げるという意味で、金員を包むのは最近のことでしょうか。
一説には、急な訃報で喪家には現金が整わないので、ムラ人たちが皆で持ち寄って協力したものとも聞きます。
ひるがえって今日の葬儀では、受け取らないのが通例となり、逆に受け取ると「え?!ココ、取るん?」と思われる始末・・・。もらったらもらったで、のちの香典返しの儀に、差出人不詳などがあるなど、喪主一家の煩雑さは想像に難くありません。
今や小規模・安価な葬儀が主流となったことで、互助的意味合いがなくなり、また世代交代で誰が誰やら分からなくなりつつあり、「香奠」が形骸化しました。
しかしながら、香奠不要といっても参列者の御心を突き返すかのようですので、たとえば受付で「お花懇志」などと称して1人・2000円くらい裸でもらっておいて、その場で500円くらいのハンカチなどをお返しして終了、程度に留めておいた方がよいと思います。
また、そこそこ以上の社長や住職などの葬儀などでは、参列者も多かろうと推察されますので、関係者のみで密葬し、満中陰を兼ねて「本葬;感謝の集い」を行うというのも一考かと思います。その際に喪家はゆっくりと参列者とお話しもできることでしょう。
私は世俗のつきあいを否定しているのでは全くありません。「つきあい・常識」という名の下に喪家の意向・心情に配慮しない行動は慎むべきであろうと言っているのであります。
「お前は非常識だ」とのレッテルは覚悟しておりますが、「常識」が常に正しいわけではありませんので、皆様にはご海容いただきたく存じます。
今後、葬送儀礼はどんどん合理化されていきます。いつまでも「昔はこうやった、浄土真宗ではどうのこうの・・・」という意見はますます形骸化されていくことでしょう。時代の変化を嘆いていてもどうにもなりません。時代に即応していくのみです。

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