ようこそ真光寺ブログへ。
初めてデザインを変更しました。
目指せ1000記事投稿!(2019・10月6日現在872本)
なむあみだぶつ
2013/1/27
御無沙汰しておりました。
このたび、管理人夫婦に長男が授かりまして、ブログに初お目見えと相成りました。

↑おじいちゃんの指をガッシと握る我が子。男子(法嗣)であります!!!!!
偶々人間として生を受け、その小さい体に精一杯の生きる意欲をみなぎらせる。
これから迫りくる幾多の艱難も着実に乗り越え、しっかりと生き抜いてほしい。
何を為す為に生まれてきたのか、自問できるような人間になっておくれよ。
・・・嗚呼、思わず『三帰依文』を唱えずにはいられない。
人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身、今生において度せずんば、さらにいずれの生においてか
この身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、
大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、
深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。
まさに願わくは衆生とともに、
大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。
我いま見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
出典;『華厳経』巻第六の「浄行品」
さて気になるこの子の名前は、ここでの公表は差し控えます。
名前(俗名・法名)についてはちょっと思うことろがあるので、折りに触れてお話しましょう。

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2013/1/14
今年初めて、裏庭の椿である『侘助(わびすけ)』に、メジロが飛来した。
なんとも愛らしい野鳥です。
どこにいるか分かりますか?


保護色なのか、葉の緑と重なり、丸っこい体型も葉の形と似ています。これも自然の摂理なのでしょうか?

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2013/1/12
大阪の高校で、バスケ部の顧問の過剰な体罰によって少年が命を絶つに至りました。新年早々に大変にいたたまれない出来事でした。
以下、思うことをつらつらと・・・
@ スポーツ(クラブ活動)の目的は何か?
勝ち進むことを目標にしたとき、戦争と同じようにその手段は問われない、という風潮が自然に生まれます。そこには言い訳や反論は通用せず、古典的なスポーツ根性論が浮かび上がります。が、元・巨人軍の桑田真澄氏が言うように、もはや「スポーツは科学であり理論」なわけです。技術指導や試合の進め方は理論に徹し、スポーツを通じた人格の陶冶(とうや)を目指すことが望ましいと思います。
A 人は言葉によって成長し、救われる。
先生や顧問は未熟なる子供を指導することが仕事ですが、愛情に満ちた「言葉」で接してほしいものです。どんな子供でも尊厳を以て接すれば、どんどん成長するものです。たとえ試合で負けたとしても、心が成長すれば良いのです。威厳を撒き散らかす指導者は指導者・リーダーに非ず、です。
B 罰
そもそも「罰」とは何なんでしょう? 罰は罰則の罰であり、罪を犯した者が受けるべき代償が罰です。子どもたちは「仕事でスポーツをしているのではない」のです。学生の本分は勉強であり、クラブは単なるオプション活動です。そこには罰という概念が通用しないと思いますが・・・。
学校って、やはり特殊な世界なんですね・・・。
最近、真光寺にも高校生がお参りに来る姿がときどき見られるのですが、何かストレスを抱えているのでしょうか、心配になります。

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2013/1/1
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
お正月だからといって休んでる場合ではなく、さっそく正法弘通(ブログ執筆
)に勤しむことといたします。(実際、寺には時節を問わずに無数の仕事・作務がある)
昔から心がけている私的な習慣としては、年が変わって最初の読み物として親鸞聖人の『教行信証』の「総序」を拝読することにしています。格調高く、法味あふれる御文に気が引き締まるのであります。
さて本日は午後1時より「修正会」が勤まりますが、今年のおつとめは【三奉請】の代わりに、この【至心礼】と『讃仏偈』を皆でお勤めしようと思います。

経段の前の各種【伽陀】類を丁重に勤めることで、短い法要でも非常に格調高いものと成り得ます。
至心敬礼 南無常住仏
至心敬礼 南無常住法
至心敬礼 南無常住僧
敬礼(きょうらい)とは、警察官や自衛官が行う【敬礼(けいれい)】の由来になっている、目上の者への敬いの念を、身・口・意(しんくい)に表すことです。
仏や神を自己の欲望充足の道具とすることを、大きな恥と自覚せねばなりませんよ。
自分とは何者ぞや?
自己の迷いに気付いてるか?
何故に阿弥陀如来は浄土を建立せしめ、釈迦は世に出興せしめたのか?
これら人類共通とも言える苦悩に応えるものこそ、三宝と称される【仏・法・僧】です。その三宝に真心から敬礼し、永遠不変(常住)の価値を拠り所として、この不確かな人生を同行と共に今年も歩んでいくのであります。
これこそが念仏者の新年の迎え方であると確信します。
一年の計は元旦にあり。
人生は短い。グダグダした正月は私はキライだ。
今年のプランを今日中に描いてしまおう。

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