2013/2/1
名前を付ける・・・単純なようで奥が深い世界です。
みなさんは「俗名」と「法名」との使い分けに戸惑うことはないでしょうか?
寺に生まれて、将来僧籍を得て欲しい、と願う名付け親は、赤ちゃんに【善証;ぜんしょう】などと命名し、将来的に得度したときに、そのまま【釋 善証】と名乗らせる、みたいな・・・・私がまさにそうなのですが、昔からちょっとおかしいのでは?・・・と思い続けてきました。
寺に生まれた男の多くは、一般人とは違った風の難しい名前が多いため、
「・・・何て読むんですか?」
とか、
「君は家がお寺なん?そしたら税金払ってないんやろ?」
とか、非常にうっとうしいやり取りを何十回もしたことを覚えています。また、友人同士とはいえ、法名を呼び捨てにされることにも抵抗を感じました。税金は払っています。お坊さんは基本サラリーマンです。
法名を名乗る、ということは浄土真宗の場合、形式的であっても俗世の価値観を捨てて、仏法一筋に生きることを表明する重要な行為・意思表明です。俗名と法名が同じ、ということはこの辺りの気持ちの切り替えが曖昧である ということを想起せしめます。
俗名がそのまま法名なんて、私にとっては土足で本堂に上がるような感覚です。
さらに不可解なものとしましては、苗字を俗姓のままにして、名を法名で名乗るというパターン。・・・たとえば「山川 和夫氏」なる人が、急に【山川 善証】と名乗る場合・・・。
法名を名乗るのならば、【釋 善証】でないとおかしいでしょうよ??
Tシャツ・ジーパンに、白足袋・草履を履いて街を歩いているようなもんなんですよね。
逆に、ネットの世界では、ブログでの僧侶のコメントなどで【釋 義劫】などときちんと法名で名乗られる場合が実に多い。これこそ理想です。
僧侶が俗名と法名とを無意識に使い分けているからこそ、一般の人々も混乱し、とどのつまりは、法名が【死んでから付けてもらうもの】と解釈されるのである。
得度・帰敬式を受けた僧侶・門信徒はせっかく頂いた名前を積極的に名乗りましょうよ。そうすればもっともっと御同朋・御同行の仲間意識が高まるはずです。
名前っていうのはですね、記号・名札ではないんです。
その人自身であり、アイデンティティそのものなのです。
名前(名乗ること)はとんでもなく大切なものなのです。
続きはまた・・・。

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