今日は金曜日で、法務はお休みの日。
来週の前住職の満中陰法要(7月4日午後3時〜)準備をあらかた済ませ、読書。
井沢元彦氏の著作はいずれも良いです。

我々の基本的立場は仏教・浄土真宗ですが、浄土真宗だけを学べばよいか、というと、とんでもない話です。このことは僭越ながら、特に若く真面目な僧侶に警告しておきます。「浄土真宗は最高の宗教」と言われる人がいますが、とても危険な思想ですヨ。
その前に我々は仏教を、神道を、歴史を、日本人の精神性を深く学ぶ必要があります。そういう素地が無ければ地域社会に根付く僧侶には到底なれないと思うのです。
「仏」と「神」・・・
親鸞聖人の【神祇不拝】という一節のみが独り歩きして、一神教的な浄土真宗の解釈が正統なるものとして理解されてきました。・・・それは正しいんです。立場的にそういう風に言わにゃアカンことも分かっとるんです。ですが、問われているのは、その正しさを如何にして表現し、伝えていくか、なのです。
方便として神概念や儒教の精神などを見直してみてはいかがなものでしょうか。もっと寛容さを目指したいものです。
「御恩報謝のお念仏・・・」といいますが、これって儒教的だな〜なんて思いませんか?
蓮如上人は次のように言われます。
一 神明と申すは、それ仏法において信もなき衆生のむなしく地獄におちんことをかなしみおぼしめして、これをなにとしてもすくはんがために、仮に神とあらはれて、いささかなる縁をもつて、それをたよりとして、つひに仏法にすすめ入れしめんための方便に、神とはあらはれたまふなり。しかれば今の時の衆生において、弥陀をたのみ信心決定して念仏を申し極楽に往生すべき身となりなば、一切の神明はかへりてわが本懐とおぼしめしてよろこびたまひて、念仏の行者を守護したまふべきあひだ、とりわき神をあがめねども、ただ弥陀一仏をたのむうちにみなこもれるがゆゑに、別してたのまざれども信ずるいはれのあるがゆゑなり。 (『御文章』2帖目第3通)
またお堅い話になりましたので、慶の最近の様子をお伝えします。五ヶ月になりました。表情がとても豊かになりました。
善導大師は『般舟讃』にて、
仏身円満無背相 十方来人皆対面(仏は円満にして、あらゆる人々に背を見せることはない(=すべてを受け入れる)」
と言われました。赤子は時々仏のよう、と譬えられます。やはり寛容なることが念仏の心なのでしょう。

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