ようこそ真光寺ブログへ。
目指せ1000記事投稿!(2021・11月27日現在941本)
なむあみだぶつ
真光寺公式LINE開設→
2013/8/28
昨日は本願寺常例布教にいってまいりました。
昼座と夜座と続けてです。
管理人の友人のN教区のK・J使です。

非常に明朗な声・内容で聴く者の心をとらえておられました。
阿弥陀如来の本願力によって浮かび上がってくる、私たちの無明煩悩を様々な譬えでもって鋭く指摘されました。
終了後、ひょんなことから大学時代の同窓生にも再開し、食事会にて旧交をあたためました。
大学を卒業してから20年を間近にし、同世代の訃報や病気の知らせも耳にし、自分だけはまだ大丈夫だろう、との慢心が恐ろしいことだ、と身につまされる思いでありました。
浄土真宗・寺院を縁とするつながりは誠にありがたく、飲食や遊興が目的で集まるのではなく、仏法聴聞・法要参詣を主として法友(仏法によって結ばれた友)が集うひと時は、実に充実した時間ですね。 お互い、刺激をもらって自坊に帰っていくのであります。

1
2013/8/23
前住職の百箇日(ひゃっかにち)法要が内輪で勤まりました。

暑い夏、盆時期の法務繁忙などで十分に偲ぶ間もないまま月日が経過していきます。
ところで、百箇日法要は、別名【卒哭忌(そっこくき)】と称します。
哭とは、犬が泣きわめく様子を意味し、この日を目途に悲しみの涙を流すことから卒業しようというのが、卒哭忌です。続く一周忌は【小祥忌】、三回忌を【大祥忌】と称し、次第に「喪」から抜け出していきます。喪に服したり、喪中ハガキが云々ということ・・・
これらはすべて儒教の考え方です。
好むと好まざると、仏教であろうとなかろうと、儒教のスタイルは生活に根強く残っています。
年忌法要も、白木の位牌を使うのも、みんな儒教由来です。(・・・浄土真宗では位牌は不要として、過去帖を利用したり、法名を紙に書いたものを額にいれたりしますが、素材が違うだけでやっていることは同じだと思いますが・・・)
儒教は死後の世界を解決しない、という意味で宗教ではありません。
しかし、生活倫理・規範としては看過できない存在です。
一度、浄土真宗の僧侶・門信徒として、ある程度の規範を作るべきではないでしょうか。浄土真宗では説明できないことが沢山ありますからね。いや、浄土真宗は万能ではない、ということを認めよう、ということかな。
当面の問題は、今年の「喪中ハガキ」はどうしようか、である。

1
2013/8/19
ちょっと巷で注目されている本です。

(左がダイヤモンド社刊、右がbasilico社刊)
「死」については、誰でもあまり考えたくはない、できれば避けて通りたい事象でありますが、誰でも“経験”していくものです。いや、それもおかしな表現ですよネ、だって「あ、俺死んだんや」と振り返ることはできないのですから。
作者は現役の東大医学部の救命救急医。科学的思考になじんだ人が死後の世界という非合理の世界を紹介するという摩訶不思議。
私は物心ついた頃から、「死」にとても関心がありました。
大学に入りたてのころ、終末期医療の創始者、臨死体験を研究したエリザベス・キューブラー・ロス女史の本をよく読んだものです。そこに書いてあることと言えば、人が死に臨むと光に包まれたりだとか、急速に上昇していく感覚が生じるだとか、決して苦しみや闇に放り込まれた感覚ではない、とされます。
宗教家の立場からすれば、眉唾かもしれませんが、医学の立場からの見方も大いに耳を傾ける価値はあるでしょう。理想なのは、科学(医学)と宗教が有機的に関連付けされることです。
浄土真宗の僧侶の立場からすると、親鸞聖人の書かれたもの以外は異端となりますから、当書の内容を決して肯定されないでしょうが・・・。坊さんはもっと視野を広めないといかんですね。
「本願を信じ、念仏申さば、浄土に往生して仏に成る」
浄土真宗の死生観です。・・・何気に言いますが、これってすごいことですよね。
ここには、生死(しょうじ)の苦からの解放・時空からの超越が含意されているのですが、これを分かりやすく「布教・説法」という形式で、人々に伝えていくのは実に至難の業です。このことを正面切ってお話しされるのは、今のところ奈良の「大峯 顕先生」以外にはいません。
伝える側の自分自身が、死と往生についてどのように体得しているのか、いかなるイメージを抱いてそれを言語化していけばいいのか・・・。精神と物質はどのような塩梅で理解すればいいのか・・・。科学と宗教とは・・・ う〜〜〜〜ん
・・・考えすぎ?!
これからの時代の布教には、生と死のことわりについて味わうのに、医学の知識もいるであろうし、分子・原子のふるまいといった物理学・量子力学といった領域にも及ぶかもしれません。
「死」を考えるということは、今の「生」を考えるということ。
「生死一如(しょうじいちにょ)」と申します。
「私のからだ、私のいのち」・・・などと言いますが、それがそもそもの迷いの始まりでしょう。私たちのいのちは宇宙創成已来の百数十億年の物質から構成されているのです。縁によって生命が誕生し、縁によって命が滅びるのです。そしてまた新たな縁が生じ・・・というところでしょうか。仮に「私」と措定するものがあるのみです。
青い方の本のタイトル、
『人は死なない』・・・
なんかホッと安心しますね。
我々のホームグラウンドである「浄土往生即成仏」へと帰着しそうで。。。

1