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なむあみだぶつ
2013/9/30
ご当地、堺市在住の作家・山崎豊子さんが亡くなられた。
・・・葬儀は何処でやるんだろう?? お焼香に行きたい・・・。
社会の闇を鋭く描写した作家とされるが、社会の闇とは他でもなく人間性の闇である。それを浄土真宗では「機の深信」と称され、時代を超えて小説のテーマに成り得るだろう。女史も宗門校の京都女子大学を卒業されているから、かかる「機の深信」についての洞察はあったのかもしれない。
最近では『半沢直樹』が注目を得た。人間の闇をテンポよく描いた作品だったが、私見ではもう少しゆっくりと闇の部分を照らして欲しかったかな・・・と。完全懲悪の時代劇と思えば痛快であった。半沢の妻役の上戸彩も時代劇の町娘風で花を添えていたと思う。
山崎作品のドラマでは『華麗なる一族』と『白い巨塔』が双璧であろう。
山崎豊子の作品は、厳密な取材を基にしているせいか、しばしば現実がほぼそのまま描かれており、物議を醸したことがあったようだ。現実はドラマよりもドラマチックなのだから、それはそれで良いことだ。
学芸会風のくだらない筋書きのドラマの多い中、気骨のある作家がまた一人亡くなられた。

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2013/9/19
前回の研修会以後、葬儀が2件続きまして、改めて思ったことを徒然なるままに・・・。
論点であろう「一連の葬送儀礼の中でどこまで世俗の価値観を許し得るか」、という点について。
当寺の場合ですと、
@ 弔電披露は少数ならば披露しないか、開式5分前に読ませる。聞き入れられない場合は読経を中断させることなく、一般焼香中に静かな音量にて読ませる。
A 喪主の立礼は認める。何らの問題はない。
・・・まぁ、正直言ってこの程度の問題です。
当地ではずいぶんと近代化してきて、焼香順位が前後してモメたなどは聞いたことがないし、清め塩への理解も徹底され、一部葬儀社を除いて司会のアナウンスも最低限に止められているお蔭で、導師は快適に儀式・説法に専念出来ており、ありがたいと思います。
皆さんもいろんな葬儀に参列されて、様々な印象を抱かれていると思いますが、私が前住職や前々住職から指導されたことといえば、
@ 導師(僧侶)が威厳と清潔感を以て装束を整え、
A 堂々と自信を持って大きい声でお勤めをすること、
B 遺族の悲しみの心情を十二分に忖度すること、です。
葬儀社の対応がどうだとか、参列者の心構えがどうだとか、そんなことはどうでもいいことなのです。
僧侶が阿弥陀如来と故人の御遺体・御遺族を前に、如何にして恭敬(くぎょう)の心で以て儀礼に専念するのか、が肝要でありまして、それを意識の高い葬儀社のスタッフや、なじみの門信徒の方々、地域の方々は、よ〜く見てなさるのです。
それはまさに真光寺の歴代・当代への信用問題ですから、次世代にも間違いなく伝えていく所存であります。
儀礼は僧侶の身業説法です。
私は葬儀の度に、僧侶として一人の人間の生と死の仲立ちをさせて頂くことへの責務の重さと光栄の念を抱くことであります。
この若い住職にも入・退堂の際には深い礼で以て迎えられます。それは私に向けての礼ではなく、七条袈裟と、そこに結ばれた修多羅(シュートラ;経典)に対してであります。僧俗ともどもに、この点は特にご留意頂きたいと思います。勘違いしている坊さん、多いですね〜。
ですから、お布施も僧侶に対して為すべき性格のものではありません。【読経の報酬】ではないのです。【経典・説法への敬意】なのです。

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2013/9/15
アマゾンから届きました。
「インターネットラジオ」 ¥17,000- 也

「〜ながら族」にはお勧めです。
世界中のラジオ局、およそ1万局へダイヤル操作とボタンのみでアクセスできます。家庭内の無線LANを使用します。
今は何でもかんでもスマホやPCで事足りるのですが、どうも帯に短し襷に長しの観が否めません。スマホなどの機材もどうも好きになれません。未だ旧型携帯保持ですしね。
1970年代生まれはこういうガジェット(小道具)に興味が向きますねぇ。
この製品は試しに購入したもので作りも粗雑ですが、ヤマギワ無線のHPあたりでスタイリッシュな製品が出ておったと思います。・・・近いうちに買おう。物欲が強いのも70年代前半生まれの特徴ですね。世の経済発展に貢献(布施)しているんですね、はい。
ステレオでのCD聴取はディスク交換が面倒だし、i-podは持ち運びの手間や電池残量が気になるし、ネットワークオーディオも結局パソコンを操作せねばならないし、悩んでいたところです。
アフリカや中近東のラジオ局なんか、面白いですよ。現地にいった気分になりますよ。
一つ関心したのはキリスト教の局が各国にあり、日本では【羊飼いラジオ】と称し、延々とお説教が流れています。これはぜひ我らが教団にも取り入れてほしいものです。
・・・ただ、いくつかご注意を。
説明書は英語オンリーです。が、高校1年生レベルなんで大丈夫です。
それと、無線LAN接続が出来たら、まずソフトウェアの更新を行わないと聞けません。
それにしても、なぜこういう製品が日本で発売されないのでしょうか??

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2013/9/8
本願寺津村別院(大阪教区教務所)にて。
現在、本堂修復中につき、ホールが仮本堂となっています。

葬儀についての研修会。
会場には葬儀社のスタッフの方や門信徒・僧侶200名を超える人々で埋め尽くされました。みな「良い葬儀を勤めたい」と思われる熱気でムンムンでした。
講師の先生も永年にわたり、よりよき葬儀のあり方や、浄土真宗の葬儀はかくあるべき、との確固たる信念のもと、具体的な事例を列挙されて阿弥陀如来中心の仏事を広めるべく、お話をなさいました。

その信念を貫徹する中で、“世俗”的な「式中での弔電披露」や「焼香順位の廃止」「清め塩の撤去」などのご努力を進めて来られました。・・・このことはよく分かります。
しかし、この“世俗”の風習・論理の多くを否定すると、言うまでもなく激しい抵抗を生みます。たとえば、喪主や葬儀委員長の弔問客への立礼をも廃止せよ、とか、通夜式での焼香はさせない(なぜか葬儀式では可らしい・・・?!)とか・・・。
もちろん、明らかにおかしい世俗的習慣は存在します。しかし、大切な世俗的習慣もあり、社会生活を営む上で無視できません。
私の拙い経験上で言わせて頂ければ、「葬儀は純粋な宗教儀礼ではなく、様々な要素が複雑に絡み合う、いわば社会通過儀礼」でもある、と思うのです。遺族・参列者の中には無宗教者や他宗教信者も居るわけで、自治会の方々や葬儀社の協力がなければ何も始まりません。土地土地の風習も無視するわけにはいきません。
ご講師は、世俗的要素の介在によって阿弥陀如来の慈悲心が邪魔される、と主張されるのですが、私は阿弥陀如来の御慈悲は、煩雑な世俗の些事を貫くと思います。世俗の要素が多少介在しても、如来さまの慈悲が曇るなどということは全くあり得ない話です。
浄土真宗は、出家者(世俗を排した者)の教えではありません。
まさに世俗者の為の念仏の教えです。
時代や状況に応じた葬儀の理想像は、常に模索されるべきです。

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