ようこそ真光寺ブログへ。
目指せ1000記事投稿!(2021・4月1日現在922本)
なむあみだぶつ
真光寺公式LINE開設→
2013/10/27
法務・庭仕事の合間には、先日お話した前住職の遺作集の編纂作業です。
有志の方にお集まりいただき、作品選別会を実施して、本に掲載する作品を絞り込んでいきました。そこから作品の種別分けをしていくのですが、仏教的・宗教的な作品には、現住職の補足説明を加え、本を手に取って下さる方々の理解の一助とさせていただくことにしました。
たとえば、
「気が付けば 大いなる “親”の ひざの上」
との語句があったときの“親”とは、阿弥陀如来のことを指すのですが、これをまともに我が親のひざの意と取られたら意味が通じないわけです。譬喩(ひゆ;たとえ話)を使うには深い相互理解が前提となりますが、現在、急速に譬喩が通じなくなってきているように思いませんか?
・・・であるからして、作品の横に味わいの一端を文章で示すことにしました。
掃いてもはいても落ち葉がたまる
抜いてもぬいても草が生える
やっぱり凡夫だなあ
・・・凡夫(ぼんぶ)。
浄土真宗で多用される言葉。
凡夫とは「凡庸なる士夫」の意味で、煩悩にしばられる者・真理に暗い者、すなわち私自身のことをいう。
聖徳太子は『十七条憲法』の第十条で「われ必ずしも聖に非ず、かれ必ずしも愚に非ず。共に是れ凡夫のみ」とされ、無知なるもの同士、お互いに許し合って生きていこうとする世界観を示された。
親鸞聖人は『一念多念証文』に「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて欲も多く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ多くひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえずたえず」と、厳しい自己反省を促されている。
落ち葉や雑草にキリがないように、おろかな私たち凡夫は、煩悩の無限なることに改めて慚愧の念を抱くことである。
読解力の乏しい坊守は私の文章を横から見て「アンタの文章はめんどくさい・・・」と非難します。誰にモノ言うとんねん!・・・これでも住職、文学博士号持ってるんスけどね・・・。
・・・まあ、いいか。
読み手もいろいろだし、仏教の言葉・概念はそんなに簡単なものではありません。分かり易さを目標にして意味が抜け落ちては何にもならないでしょう。今現在、読んで理解されなくとも、数年後にハッと気付くこともあるでしょう。
私自身も、ようやくこうして亡き父と対話が出来ているのですから。

2