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なむあみだぶつ
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2014/1/27
時間を見つけ、父のアトリエの整理をしています。アトリエは徐々に現住職好みの書斎(秘密基地)と化しつつありますが、遺作・遺品に囲まれ、いい感じになっています。
父は趣味といえば趣味、教化伝道といえば伝道、の目的でいろいろと書いておりました。今春には作品集を刊行の運びと成りました。見たことのない作品が次から次へと出てくるので、今更ながらに父と再会を果たしている気がします。最近、夢にも毎晩のようによく出てくるんですよね・・・。
今日は何気に引き出しをあけると、こんな扇子に出逢いました。

右から【閑古錐(かんこすい)】と読みます。禅語ですが、もとは『華厳経』や『碧巌録』にもこの言葉は出てくるみたいです。
【閑古錐】とは「使い込んで先が丸くなった錐(きり)」のことですが、要は若い時分は能力・才能・体力も長けて、一応その道ではキレル人物なのかもしれないが、世の中、役に立つということだけが全てではないですね。
先の丸い錐は役には立たぬかもしれないが、錐としての存在は保っています。あたかも修行によって積み上げ、練り上げてさらに悟りの臭みもなくなった真の悟りの境涯に例えた言葉なのでしょう。
住職は昨年40歳を迎え、ふと考えることがあります。
40歳は別名「初老(しょろう」といいます。60歳で初老とかいう御方、使い方間違ってますよ。一昔なら後期高齢者ですから?!
70歳でも元気モリモリ、若い奴らには負けてない!という方も大いに結構なのですが、私は天邪鬼に「もう若くはないのだ」と自分や周囲に漏らしています。
若い、とは尖った錐のように、何かを傷つけながら進んでいくということでしょう。若いということはまた、自分の信じる方法・能力に絶対的に過信してしまうということでもあります。
私もまた自分の進めてきたことに幾ばくの自信を持っていましたが、それは今となってはどうでもいいことのように思います。論理的に正しいことを主張してもそれがまかり通らない世界がこの娑婆世界であります。
人間、丸くならないといけないんですね。それは周囲への妥協ということではなく、思いを瞳の奥にギュッと閉じ込めておく、ということです。それが人間としての深み、なのだと思います。
去年でしたか、一つ上のT川先輩にこういうことを言われ、ガツンッときました。
「木村君、あんまりセコセコと動かない方がいいよ、何事も“あ〜そうですかぁ”言うて笑っていればいいんだよ」
・・・先輩も何か悟ったのでしょうか?!
20代・30代と生真面目に勉強も仕事もしてきたけど、これからは能力も落ちていくことだろうから、錐が錆びないよう自らに油を注す程度にしておこうかな。
・・・何気なく触れる父の作品は、時に応じて私にメッセージを伝えようとしているのだと思えてなりません。浄土から還相のはたらきに出た徳風、ということにしておきましょうか。

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2014/1/22
最近チラチラと耳にする「終活(しゅうかつ」。
人生の終焉(しゅうえん)に向けて、事前準備を万全にし、子どもたちに迷惑をかけないようにしようとする活動のことです。
さきほども夕方のニュースで取り上げられており、わざわざ自ら棺桶に入って、
「ちょっと肩幅が狭いなあ。それともうちょっとクッションを柔らかいめに・・・」
などと言っている映像が・・・。

↑住職にはこのような趣味はありませんので、悪しからず
少し気になるところを箇条書きで言わせてもらえれば・・・
@ 終活の指導が葬儀社が主体になっており、寺院・僧侶に尋ねることがない。
A 葬儀・墓・相続など、実務的なことばかりで、自らに生と死の意味を問う視点が欠落。
B 「子供に迷惑をかけるから云々・・・」という視点は何処かおかしくないか?
C もはや宗教は要らない、と思わせる。
家族や自分が死ぬ、ということに関して【葬儀の規模や墓の始末、社会的ケジメをどう付けるのか】という問題→AB と【死の意味を問うこと】とは、似て非なるものです。
しかし、世間の関心(すなわち終活)はもっぱら前者であるように思います。
寺院・僧侶の立場としては、死の意味を問い、死後(往生浄土)の世界へと案内すべきでしょうが、もはや科学的・合理的思考に親しんだ人々には「説得力」を持ちません。それがCの言わんとしている点です。
「それが良いとか悪い・・・」という議論はすでに終わり、葬儀はもはやビジネスです。僧侶はビジネスと思っていなくても、世間はそう理解しているのです。「お布施はお気持ちで・・・」などと悠長なこと言ってるから、イオンに料金表を作られるという屈辱を味わっているのです。・・・あ、ビジネスという言葉にあまり過剰に反応しなくてもいいです。宗教界も資本主義の論理とは無縁でいられないという意味です。
僧侶は極論、お経・法話だけこなせば、所期の役割を果たすのですが、遺族にとって寺院との関わりは、死のイベントに関する一部にしか過ぎません。遺族にならないと分からない煩雑な作業が続きます。
さらなる核家族化、はたまた事実婚が当たり前の世の中になるであろう未来において、従来の「いわゆる檀家制度」を基盤とする寺院運営にはもう将来がありません。あと25年、すなわち団塊の世代が死ぬまでは、「終活」には関心を持ってもらえるでしょう。しかしその内実は極めて非宗教的なものです。
今、「終活」にもっとも疎いのは、実は僧侶かもしれない、と思います。今、世の中で何が起こっているのか、もっと敏感になるべきで議論・対策を深めるべきではないでしょうか?

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2014/1/18
↓ということで、オンエアはされました。
ところどころ適当にカットされていて・・・まぁ、それは当然ですが。
ご近所には何も無いな〜と思ってはいてみても、探せばユニークな方がいて、それぞれの人生があって、身近といえども世の中知らないことだらけだな、あるいは人と人とのつながりは無限につながっていくんだな、と改めて思い返されたのでありました。
ウチの信徒さんの娘さんが、元ミス・ユニバース優勝者(世界大会で15位)であったり、「隣の人間国宝」に選ばれた昭和マニアの少年(当寺門徒のお孫さん)のことを聞きつけて、その少年に昭和時代のソノシート(簡易レコード)を家で保存しているからもらってほしいと、真光寺に問い合わせに来る方がおられたり、・・・と。
ま、この番組『よーいどん』は関西地区でないと成立しない番組ですね。ここまで素人さんで番組が成り立つのは、あとは『探偵ナイトスクープ』ぐらいでしょうか。
やっぱり大阪はオモロイ人が多い土地ですね。
他府県からみたら、やはり特殊なエリアなんでしょうね。

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