ようこそ真光寺ブログへ。
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なむあみだぶつ
2015/2/28
今日は坊守がママ友の集いがあるとかで昼前から出かけました。その間にブログ更新作業です。
記事は常に頭の中で巡っているのですが、なかなかパソコンの前に座れません・・・
。
さて、今回は布教の際に用いる道具類について。
当寺の本堂の外陣は狭く、奥行きが3間しかありませんので、布教の際に参詣者との距離が異様に近いのが悩みの種。天井も低いため、本堂というよりも広い座敷という感覚に近いものがあります。
やはり七間四面の本堂、すなわち外陣では間口7間、奥行き4間、都合56畳敷の外陣・矢来(やらい;内陣と外陣の間の空間)付きが絶妙の空間であると、感心するわけです。天井高は北陸の真宗寺院みたいに2間半はしっかり欲しいですね。。。
大阪ではなかなかその規模の本堂はありませんのが残念ですね。
何を贅沢な、とも言われましょうが、宗教儀礼・法話において、空間をいかにとらえるのかはとても大切なことです。空間によって話す内容が違ってきますからね。あまり皆さん、こういう点に関心をお示しにならないでしょう?
・・・というわけで、狭い本堂なりにいろいろと苦心をするわけですが、現在真光寺ではこのようなセットを用いています。

非常にコンパクトでしょう?
イスを用意してあるのは、狭い外陣ゆえ立って話すと、参詣者を見下ろすようになることを懸念してのことです。黒板もホワイトボードやらマグネット式も試しましたが反射の問題もあり、原始的なチョーク式に回帰しました。大きさもこれ以上大きいと邪魔になります。
招聘するご講師には専門用語が出たときなど、板書を是非お願いしたいのですが、最近板書をしない先生が目立ち、主催者としては不満に思います。言葉が門信徒に伝わっていないのです。小さいながらも是非活用いただきたいものです。

2
2015/2/13
「法名が欲しい」
……と、有難いお申し出の方が目立つようになりました。
しかし、その意味・手続きを伝えることに実は四苦八苦しています。
法名を希望される方の多くは【内願法名】を希望されます。即ち手次寺院の住職と相談して文字を内定させておいて、本願寺に出向いて【帰敬式;ききょうしき】を受式頂く、という段取りなんですが・・・・困ったことに「住職に名前を考えてもらったらそれでいい、本願寺まで行きたくはない」と仰るのです。
なんと言う合理的思考……。
私はふと気がつきました。みんな「そうか、法名をもらうことが目的になっているのだ」、と。それで死んでも心配ない、と。若い者にも迷惑をかけない、と。
【帰敬式】とは、宗門を代表する方の手により、お剃刀を受け、生涯仏法僧の三宝に帰依することを仏前においてお誓いする儀式です。その式を受けた証としての法名授与、と相成ります。
名前だけ欲しいという人は、この【帰敬式】の意味を軽く見ておられる、いや我々の教化伝道不足が露呈したということです。
この事例はまさに物事の「本末顛倒;ほんまつてんとう」と言えます。
・・・繰り返します。「帰敬式を受式されない方は、仏弟子とは認められませんので法名はもらえません」以上。簡単なことですね。
本末顛倒の例として、他にも本願寺への【院号申請】なんぞも如何でしょうか?
いったい、どれだけの人が、正しい院号の意味・手続きを理解しているのでしょうか?
本願寺に院号をくれ、といってもくれません。
それは本願寺に20万円以上(前にも言ったようにこれでは院号の価値に合致しない)の、永代経懇志を進納された方への「お扱い(特典)」として院号がもらえることになっているだけの話です。
過去に何軒か、その説明をしたにもかかわらず、後日に「ウチは本願寺に永代経を申し込んだ覚えはない」と言われたことがあります。
「永代経」といっても、寺側が説明する内容と、一般の希望する内容とは食い違っていますしねぇ。………もう、めちゃくちゃになってますね、蓋を開けてみたら。
最初に話を戻しまして、わざわざ本願寺からはもらいたくない、との意見が出るということ、そして実際には生前に帰敬式を受けていなくても、葬儀の際に各住職がお剃刀の儀を執行して法名を授与していることの現実を考えてみますと、やはり法名の大義が薄らいでくると思います。
更には、生前に寺を毛嫌いし、仏法聴聞とは無縁の人にも其れなりの法名を恭しく揮毫するとき、とても虚しい気持ちになりますよねぇ。
極端な話、俗名で葬儀を迎えてもいいんじゃないか、との意見も出てくることは至極当然なことです。無理して仏式の葬儀を出すことはないんじゃないでしょうか??
先に述べました葬儀の手順の問題も然りですが、実際に直面する諸々の矛盾に対して、先ず僧侶から疑問の声が上がらない、というのがまず大問題でありまして、・・・言ってみれば「白法隠滞」すなはち世も末、ということなんでしょうね。
この先、ものすごい時代がやってくるんでしょうなあ。

8
2015/2/5
今日は法事を含めた8件のお参りを午前中に集中させ、昼からは大阪なんばのスイスホテルにて、経済学者のロバート・アラン・フェルドマン氏の講演、夕方は京都に向かいました。会場は仏光寺派本山にて、大学院時代の恩師を囲む会に行って参りました!
前者の講演【岐路に立つ日本経済の展望】はとても面白いものでした。経済学とは皆が誤解するような、お金の話ではありません。人と社会の仕組みを数値化する学問です。これによって過去の傾向を分析して未来が予想できるのですから、とてもワクワクしますね。
後者は、往時の感覚を旧友と懐かしく回顧できるものでした。しかし、浄土真宗の学問は結論が絶対的に決まっており、現在では紋切り型の解釈に終始していると言っても過言ではないでしょう。江戸時代は色んな解釈があってそれは面白いものでしたが、今の私には学問としての魅力をあまり感じなくなりました💦
そう、真宗学は一般社会で定義される学問と違うんだ、ということが解ればなんと言うことはないのですが。

囲炉裏で鍋を囲みつつ……

2
2015/2/1
昨年来、葬儀執行に際し、幾つかの疑問点がぬぐえません。
当派では『葬儀規範勤式集』に基づいて儀礼執行に臨んでいるわけですが、その一連の手順が現状と大きく異なっているわけです。
葬送儀礼は地域性が色濃いということもよく理解しておりますが、一度整理し直す時期が来ているように思います。
現行の規範は、自宅での臨終勤行・納棺勤行・通夜勤行・出棺勤行、そして火葬場近くの「葬場」での勤行を前提にしたものです。
これらは言うまでもなく、実際の流れと大きく異なっております。すなわち、「納棺勤行」を勤めることは皆無であり、葬儀式にて「出棺勤行」と「葬場勤行」を兼ね、その区分が意味を為さない、という点であります。
特に違和感を感じるのは、葬儀式中における出棺勤行『帰三宝偈』です。通夜式においてすでに出棺しているのに、今更何で?と思いますし、そもそも「出棺」などというと、葬儀場から火葬場への出発を誰しもが想起いたします。
葬儀式の流れも三奉請から始めて『帰三宝偈』を唱えるのか、『帰三宝偈』の後、三奉請を挟んで「正信偈」を勤めるのか(読経が始まっているのに、途中から如来の入場を請うのは不自然)、はたまた生前に帰敬式を受けていない方への「おかみそりの儀」を、葬儀式中に行うのか臨終勤行においてやるのか、通夜に行うのか・・・
これらに関しては近隣寺院でもまちまちで、何よりも遺族に対してこれが何の儀式なのか、の合理的な説明が出来ないのは、儀礼のプロとしてもどかしい限りであります。
新しい葬儀規範の制定を願うばかりです。
社会問題等に取り組むのは、儀礼の後にしてくれと、言いたい。
「儀礼」は僧侶にとって最初にして最後の砦でありますから、私はいい加減なことはしたくありません。もっとも重要なのは門信徒にとって厳粛な儀礼こそ、仏法に触れるよすが(縁)と成り得るということを失念すべきではありません。それでこそお布施の価値が理解されようぞ、というもの・・・。 気合いの入っていない寺にはお布施もそれなりにしておいたらよろしい。
とはいっても、制定を待ってもいられないので、そろそろ独自の差定(プログラム)を組んで実践してみようかな?とも。
たとえば「葬儀式」として(今後、葬場、とかややこしい事は言わないようにする。出棺勤行は廃止)・・・
先、開式までに 達書・弔電・弔辞等 披露(いかなる弔意文も読経進行を妨げてはならぬ!)
1、導師・諸僧入堂
2、至心礼または先請伽陀
3、表白
4、御本典「総序」の文(より平易な節に改譜してもよい)
5、正信偈(現行の節を依用)
6、念仏和讃(上に同じ。ただし和讃は十首ほどに譜を施し、故人の遺徳に照らして適宜2〜3種を選択す)
7、回向(聞是法而不忘〜)
8、退堂
・・・以上30分〜35分にて了
いかがでしょうか?

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