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なむあみだぶつ
2015/10/20
今月の掲示伝道法語です。
【佛心如満月(仏の心は満月のように欠けるということはない)】。

「佛」の字が大きすぎました。。。書き出しの一字を小さく書くことは書道のコツの一つなのでしたが。
電灯の無い時代の夜はさぞ風流・・・いや、時には命が奪われることもあったことでしょう、夜は恐怖の時間です。「一寸先は闇」という言葉は現実のことだったのでしょう。
闇夜に表れた月の光は悪を照らし、道筋を照らし導く灯火となったことであります。
「今日は三ケ月、今度の満月は何時ぞや?」と調べることは、命の安否にもかかわったことでしょう。だからこそ、昔は【陰暦】を採用していたのではないでしょうか?
【太陽暦】の定着はガス灯や電気の出現、すなわち「闇夜の克服」を意味しますよね。
古来より月を阿弥陀如来の光明・救いに譬えた有名な句があるので、少しご紹介いたしましょうか。
月影の いたらぬ里は なけれども
眺むる人の 心にぞすむ (法然上人)
・・・月の光は至るところに届くが、光を見ない人には届かない。
またある時、一休禅師が蓮如上人に歌を送ったそうです(注;一休と蓮如のやり取りは他にもいろいろありまして、後世の作話だと思いますが・・・それにしてもよく出来ています。如何に?!)。
阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり
たのむ衆生を のみぞたすくる
・・・阿弥陀仏には、本当の慈悲がないのではないか?阿弥陀仏をたのむ衆生だけを救うと言っているではないか?
これに対し、蓮如上人は以下のような歌を返されたそうです。
阿弥陀には 隔つる心はなけれども
蓋ある水に 月は宿らじ
・・・阿弥陀如来は、衆生を別け隔てするような心はないが、水盤に蓋(フタ)をしてしまったならば、せっかくの月を写すことができないように、阿弥陀如来の本願を疑い、拒む人には救わえる道理はない。
古来より「疑蓋無雑(ぎがいむぞう)の信心」と言われるのはまさにこのことです。
心(疑い)の蓋を取れ、ということです。万人が救われるということは、何もしないで救われるというのとまったく違うことです。
闇が破れ、光が足元に届くこと(私の行くべき道が照らされる)ことを救いと申します。闇に居るのに闇と知らないことを「無明煩悩」と言います。
闇が闇であると知ることは光に出合った、ということを意味します。そもそも光に出会わねば闇の何たるか、は知る由がないのです。モグラに光を説明することができないのと同じです。
如来の光明があってこそ私の煩悩(危険性)が知らしめられます。
「私は闇のままで問題ない」という方は、真っ暗な山道を全速力で走ってみたらその意味が少しわかると思います。月光が道を照らしているのに、目隠しをして走る、私たちはそんな愚かなことをして日々過ごしているのではないでしょうか。

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2015/10/7
今日は午前9時から、門信徒会有志の方9名ほどお越しいただき、来る報恩講法要の案内状、ならびに元旦の修正会案内、11月の【第10回仏教文化講座】案内、冊子『唯』、門信徒会報等々、ついでにカレンダーも含めて発送作業の準備をお手伝いいただきました。

何を何部発送するか、などの詳細は企業秘密ですがざっと区分のみ説明しますと・・・
@門徒
A門信徒会会員
B一般信徒
に分類されます。それ故に封入物も三種に分かれます。封筒も違います。またそれらを年行司さん(門徒組織)や世話人(門信徒会)に区分し、切手代を節約するため月参りのついでに届けるための分類等々、その作業は毎回煩雑を極めます。
さらにその中で納骨堂の管理費のご請求やら個別のお知らせを封入していきます。これらのパーソナルな作業はお手伝いの方には委ねられない作業です。
しかもこの作業は月参りや・・・今日は平日でも法事がありましたから、合間合間の作業指示が・・・いつも反省点を残すのですが、今日はクルマに案内状を満載し世話人さんへの手渡しを済ませるなど、怒涛の作業でした。
どのようにしたら皆さんの関心を惹くことが出来るのか、苦心することしきりですが、なかなかお寺に足を運んでくれるということは至難の業です。地元の門徒と言われる人々も近くにいても懇志は届けてくださっても本堂に座るということの縁が整いません。・・・かたや三重県から特急にのってお参りして下さる信徒さんもおられます。
これらはひとえに仏縁があるか、無いかの話なのですが、住職としてやれることはやっていきたいと思うばかりです。
チラシのデザインも不器用ながら自分でやります。自画自賛ですがここまでやっている寺はあまりないと思います。
ともあれ、どうぞみなさんご参詣を。

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