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なむあみだぶつ
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2016/6/28
昨日、本堂にてフルートの演奏会がありました。
天候もうまくしのげ、40名以上のご参加をいただき大成功といったところです。
須藤英二先生は当地・堺市に20年近くお住まいであったとのことで、当時の生徒さんの母親が真光寺の門信徒であったり、はたまた話を聞きつけてこられた別の生徒さんがウチの親戚寺院の門徒総代さんであったり等々、ご縁とは不思議なものでそういう意味でも有難い集いとなりあました。


終わってから先生とお話していて、インスピレーションを受けましたのは・・・、
「演奏が終わったら住職のお話があるのかと思っていましたよ」
とのことでしたが、
「いやいや、今日は先生がメインですから、恐れ多いことですよ」
と申したところ、
「お説教と音楽のコラボレーションも面白いかもしれませんね」、とのご感想。
・・・なるほど、仏教説話・童話の朗読のかたわら、場面展開や情景の描写の一つとしてフルートの音色は飽きさせず、より情操に訴えかけるものがあるかもしれないな、と強く思いました。
今日では、従来型の法話・お説教という形が成立し難い時代だな、と痛感します。岐阜県・奈良県・滋賀県あたりですと従来型のお寺のやり方が通用しているようですが、ここ大阪ではよほどの創意工夫をいたしませんと、お寺に関心を呼ぶことが不可能ではないか、との印象があります。
音楽の癒しの効果と相乗して、仏教の教えが皆さまの心に浸潤していくことへの一つの希望の光が見えたような気がした集いでした。

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2016/6/24
来る6月27日(月)午後2時から、真光寺仏教文化講座として、フルートの演奏会を開催いたします。

当寺・信徒の杉原様のご自宅にてホームコンサートにお招きいただいた折の奏者の先生です。
今、話題の神奈川県湯河原町よりお越しいただきます。・・・公用車で来られるかは不明ですが・・・コラコラ。
簡単なステージを近隣の御寺院にて拝借し、準備万端です。

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2016/6/14
我々にとって「浄土」を考えるということは、古来からも、そしてこれからも要(かなめ)となっていく論題です。

『月刊住職』と『今、浄土を考える』勧学寮編・本願寺出版社(2011)
こんな本を読みました。『月刊住職』は『週刊文春』なみに面白い本です。スクープされないように自重せねば・・・。
親鸞聖人の浄土理解は「浄土も仏身も光明」であるとのことですが、それが人々の心情に即してか「浄土で再び会う」という表現もあるのが難しいところ。両者の間で揺らぎます。
教学では「三厳二十九種」を【広門】、「一法句」を【略門】ととらえ、二者は広略相入す・・・との解釈で捉えよ、両者は矛盾しない、と説かれます。
・・・しかしこんな教理問答が現場で通用するのでしょうかね。
まさに浄土の解釈は堂々巡り、悪魔の証明みたいなジレンマに陥るのです。
『月刊住職』(2016・6月号)では、読者(住職向け)アンケートとして、檀信徒に「死んだら親に会えるか」、と聞かれたらどう答えるか、の回答に関して86%が「会えると答える」としています。
・・・この答えにホッとすると同時に、教理的にいえば「仮にこの世で私や何某と名乗っているものが煩悩を離れて浄化された世界が浄土であるから、涅槃・仏性ともいうべく実体を有さない存在の世界となる。そこはもはや誰だとか、私とかいう実体もなく、したがって再会するという概念すらない」という解釈もあり得るのです。・・・「どちらでもない、」と答えた10%の住職はこういう点が頭をかすめているだろうと忖度するわけです。
でも、浄土真宗は倶会一処なんだよ。。。となり、またまた???の世界となります。
今、私は思う。
僧侶の皆さん、教学はそれで食べている人の専売特許として、あんまり勉強するのはやめましょう。浄土真宗の学問は、かなり特殊で決して学問(サイエンス)ではありません。これは「神学(そこでしか通用しない学)」です。客観的事実よりも主体的にどう捉えるのか、という論点が大事だと言われるのです。この時点でサイエンス(学問)と見切りをつけなければなりません。
私は若い時分に教学を長い間「学問」だと思っていたが、「神学」だと思えば何でもない世界だと悟った。しかしそのことがまた世間から距離を置く、ということも悟りました。
・・・さぁこの意味をどれだけの方に理解いただけるかな?!
ですから、何の疑いも恥じらいもなく「浄土に往って、みんなでまた会える世界があるんだよ」と説き続けることに専念しようではありませんか?
逆に教学でバリバリやっている方は、現場にひょこひょこ出てきて難しい概念を撒き散らすことはお控えいただきたいものです。
私は住職ですから徹底した現場主義者です。本を読んで勉強もしますが、生の人間相手に仏教を考えることに無上のよろこびと生き甲斐を感じています。

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