ようこそ真光寺ブログへ。
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なむあみだぶつ
2016/7/24
夏の草履を新調しました。
見た目にも涼しげな竹張りの草履です。
季節感ということを僧侶ですら感じさせないことが多くなりましたが、季節感とか見た目の清潔感は大事にしたいと考えています。
ちなみにこのような履物は、雪駄(せった)とも言われる場合がありますが、雪駄は底面が牛革張りになっています。それ以外は草履(ぞうり)というべきではないでしょうか?
また雪駄は底面が革ということで、非常に滑りやすく、また履きごごちも硬いためにあまり用いることはありません。

鼻緒の目印は自分の認識用です。
そうそう、今日はポケモンGOをやる人々が門前をウロウロされていました。思わずお声掛けしましたが、新たなご縁となればうれしいことです。

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2016/7/22
【ポケモンGO】というアプリが大人気だそうで・・・。
スマホを持たない(・・・とにかく面倒臭いから)私がとやかく言える立場ではないのですが、老若男女がゲームに興じて車にぶつかりそうになるとか・・・はどうでもいいことだと思いますが、これだけの大衆を巻き込む力を持っているということは、何らかの意図を持つ権力者などに安易に利用、すなわち思想統制されてしまうのではないか、という心配があります。
企業は個人情報の保護とかいいますが、個々のくだらない情報よりも、不特定多数の人々がどのような思想行動を取ろうとするのか、どこにどのような手段で移動するのか、何を購入するのか、等々のデータを刻々と集められているのです。
こんなにまで大衆が熱狂するのです。きっと誰かが企んでいる、と思います。
大衆が何の疑問もなく、一つの対象に群がる姿は私にとって恐怖に映ります。一方でいう「個性を大切に」といったことと真逆のことですからね。
みんなと同じことをしていたい、という人間の保身欲求を満たすのがスマホ文化です。
こういう時代における宗教の在り方とは、一体・・・。
おそらく宗教は今の時代において何の役にも立たない、ということが一層明らかになるでしょう。
今後さらに人間の意志というものがコンピューターに支配されていくことでしょう。人間の価値が低められていくことでしょう。
「大衆が熱狂するものは恐ろしい」ということを肝に命じておくことがどこかで必要なのではないでしょうか?・・・戦争も株価の上げ下げも結局大衆が煽って始まるものですからね。
SF小説の予言が見事に的中していくでしょうね。

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2016/7/19
去る7月18日、お盆法要が勤まりました。
ちょうどこの日、梅雨明けとなったことでありました。
なんだかんだいって、過ごしやすい一日であったと思います。


ご講師はひきつづき奈良県の藤本文隆先生でした。
お盆法要の前後はほぼ毎年ご葬儀が入るというジンクス(?)があり、法要開始前に臨終勤行に行ってきたりと、バタバタし通しでありました。事前準備も含め、疲労困憊です。。。

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2016/7/6
ここ数日の猛暑で各地の皆様にはお見舞い申し上げます。
暑いとブログの更新も怠ってしまうことでありますが、今回は最近考えていることを披歴したいと思います。
「暑い」とか「寒い」、もしくは「痛いっ」という言葉はどのような状況で発せられるのでしょうか。
言葉は、そのほとんどが話者の理性によって脳で整理され、口頭から発話され、記述される性質を持っていますね。
しかし、「暑い」「寒い」「痛い」といった言葉は理性を介することなく、直感的な、いわば反射として、思わず口から発せられるものです。よって紙に書いて「暑い」と表明することは通常ありえません。それは理性を介していることになるからです。
言い換えれば、「暑い」「寒い」という外的なはたらきが私に働きかけて、「暑い」と口走るのです。
「なんまんだぶつ」のお念仏も、外的な(すなわち他力)要因、阿弥陀如来が私に働きかけることによって始めて「なんまんだぶつ」と思わず出てしまう現象ととらえることは出来ないでしょうか?
煩悩にまみれた私が、澄んだ心(チッタ・プラサーダ)でもって阿弥陀如来に帰依する、などということが果たして可能なんでしょうかね?? 号令をかけられて称える念仏や、で疑いを抱いて称える念仏は真の念仏ではありません。
「・・・なかなか、なんまんだぶつと称えることがかないません・・・」
と正直に吐露される方は少なくありません。が、それこそが普通のことです。
しかしながら、法話を聞いていたり、心静かに手を合わせているその瞬間に、自らの口からこぼれ出る「なんまんだぶつ」の声にハッとする瞬間が訪れることでしょう。それこそが「救い」というのであります。
「なんまんだぶつ」のお念仏の声は、私が頭で理性を働かせて称える言葉ではありません。「暑い・寒い」と自然と漏れ出る言葉のように、私の直観を揺り動かす、如来の智慧と慈悲に包まれるという、稀有なる宗教経験なのでありましょう。
・・・ですから、たとえば本願寺の各法要において司会者が参拝者に向かい「・・・ご一緒にお念仏申しましょう」などという無粋なアナウンスは是非とも止めて頂きたいばかりでなく、親鸞聖人のお念仏のこころを誤解せしめる原因を自ら作り出してしまっているということに、早く気づいて頂きたいのです。
お念仏の声が御堂を揺るがすほどの厳粛な法要・参詣者の心に突き刺さる法話を身命を賭してやらねばならないと思いますが、如何?

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