急いで打ったので誤字が多く失礼しました。気づく限り訂正しておきました。
新年よりご葬儀が続きます。1月は毎年のこととはいえ、法事もめちゃくちゃ多いのでしっかり頑張ろう。
今、今晩のお通夜前の時間に投稿しています。
・・・昨夜、1時間程度で読んだ本のご紹介です。
本の読み方にはある種のコツがありまして、大学時代に「本の読み方・情報の入手方法についての本」をよく読んでいたのが良かったと今になって思う。小説以外、生真面目に1頁から読む人はもうダメなんですぅ。

釈徹宗著
『死では終わらない物語について書こうと思う』文藝春秋刊。 1500円。
釈先生は浄土真宗本願寺派・如来寺住職にして気鋭の宗教学者、NPO法人リライフ代表等々、枚挙に遑の無い先生です。
日本人はこうやって死んできた、ことの紹介である。
日本人は・・・、という言い方は甚だ大雑把であるが、おおむね、死に対しては強い恐怖心・穢れの念をいだき、死の問題を解決するのが宗教ですよ、といっても、数字の4や9にでさえビビる国民性であるから、とりつく島も無いのであるが、歴史的には文学の上で語られるいわゆる「往生伝」というストーリーがあり、そこに死後の理想の世界を見てきたと言えます。
ただし「往生伝」というのは、おそらく平安期において編纂されたものが多いだろうが、臨終、すなわち死に際に五色の意図が垂れて、紫雲が立ち込め・・といった奇瑞を説いて、極楽浄土への往生を説くことが絵画の上でも現れています。
しかし、親鸞聖人は臨終来迎を自力の修行の末にもたらされる不安定なものと否定し、生きている段階において信心を獲得して命終後に浄土往生が確立するという教え(平生業成)ですから、今さらにおいて臨終を重視する「往生伝」を持ち出す必要が全くありません。
念仏者にとっての臨終は単なる通過点に過ぎませんので、実に淡々としたものでしょう。
釈先生は随所で五木寛之氏の『完本 うらやましい死に方』を紹介して、まことにあっぱれな死を迎えた諸氏の様子を紹介される。これこそが現代の往生伝ではないのか、とされる。全く同感です。
今、生きている人に「死ぬとはこういうものなんだよ」と説くことは非常に重要なことです。みんな不安ばかり抱いて生きておられる。それを否定するのはやはり僧侶の特権というか、義務でもあろうと思います。葬儀の儀礼性というのも、声明や装束で以て、この世を超越した世界の存在を示唆するものです。
しかし「一時期、伝統仏教教団の僧侶たちが積極的に浄土往生を語らない傾向があったように思います」(206頁)と見られます。その原因は「往生する」と言えば「私の何が往生するのか」といった疑問にブチあたり、「無我(実体)」を主張する仏教と激しく矛盾する(216頁)からであるとされます。この問題は高度の仏教知識を持つ人ならばクリアできるのですが、一般向けではありません。
そのやり取りを故・大村英昭さん(本派寺院前住職・社会学者)との対話が紹介されているが、この本の一番面白いところでしょう!
私(釈)は「感情的には死後の魂はよく理解できる。それを前提にすれば、いろんなことがすっきりする。しかし仏教は無我の立場に立たねばならないのではないか」
大村先生は「あれ?キミ、まだそんなもの抱えているの?ボクはもう捨てたよ」
と言い放った(214頁)件(くだり)です。
その時、大村先生は末期のガンと闘っておられました。
無我だのなんだのにこだわっているから生き生きとした仏法が語れないのだ。血の通った物語が出来ないのだ、とのこと・・・。
物語・・・釈先生は「ナラティブ」などという横文字を使いたがる(小池都知事と同類)困った人だが、そうか、理屈ではないんだ。「実話と説話は違う」とも言うが、そうかぁ、あの理屈っぽい大村先生がそこまで断言されて、釈先生もタジタジになったのか・・・。
当書では本木雅弘が主演した映画『おくりびと』にも言及され、2時間近くの映画の中で、結局、死者をどこに送るのか、肝心なテーマが何ら触れられておりません。遺体を清拭してどーのこーの、なんてどうでもいい。そのことを原作者の青木新門氏は激怒されたことは有名な話です。
どうして「人は浄土に生まれ行く人生を歩んでいる」と言えないのか!?
僧侶は浄土の物語を語っているのか!!
大きな課題を突き付けられた書物でした。
ということで、今からお通夜に行って、物語ってこようと思います。

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