ようこそ真光寺ブログへ。
目指せ1000記事投稿!(2021・11月27日現在941本)
なむあみだぶつ
真光寺公式LINE開設→
2017/6/28
去る6月27日、第15回仏教文化講座が開催されました。
テーマは『狭山池の底の石棺 −重源和尚の究極のリサイクルー』でした。
狭山池とは堺市の東南、大阪狭山市に位置する日本最古・最大のため池。地元の人々は古来より狭山池の水利により農業を営んで来られましたので、そのお話でした。
紙芝居は私自身も30年以上、見聞したことがなかったでしょうか。
動画ではなく、次は何だろうか?とワクワクしつつ、同時に話を確認しながら理解できる、子どものみならず、大人も楽しめ・学ぶことができます。
以下、語り手の観念寺ご住職・宮本直樹先生のHPを紹介しておきます。
お寺の出前!紙芝居屋亭

0
2017/6/26
ご無沙汰しております。
さて、最近の大きなニュースとしては、小林麻央さんの死去が挙げられるでしょうか。
ブログで刻々と自分の偽らざる様子を発信し続けられましたが、多くの人々の心を揺り動かし続けられました・・・。
海老蔵さんのコメントがまた心を打つものでしたが、今回の例に限りませんが、どうしても気になる点があります。
それは「亡き人が死後どうなるのか、といった視点が尚も不明瞭である」ことです。
海老蔵さんの会見上での表現としては「昨日夜に、妻小林麻央が旅立ちました・・・」という言葉が冒頭にあったと思います。
・・・で、何処に?!ドコに旅立ったの?
という視点なのです。あなたの最愛の奥様、何処に???
少なくとも「死んだら終い」だということではないのがまだ救いなのですが。
皆さんは「自分が死んだらどうなるのか、いのちが何処へ向かうのか」、真剣に考えられたことがありますか?
この問いが一番人生で重要なことだと私は思います。みんな誤魔化して避けておられる。病気もですねぇ、自己を見つめること、早期発見がカギを握るんですがね。
よく、「ワシが死んだら墓のことや財産のことが心配でならない」のも十分にわかりますが、そんなことが解決したところで、日々が安らぐかというと決してそんなことはないでしょう。「自分自身の死」が解決できていないわけですから。
死後の世界観が確立できていない、ということは、行き先不明の飛行機に搭乗するようなものです。自分で操縦桿を握れるならまだしも、飛行も寿命も、自分ではどうにもならないことなのです。すでに誕生した時点で、私たちは人生という名の飛行機に搭乗しております。
・・・で、飛行機は、必ず落ちます。
無事に落ちることを「着陸」といい、不安のもと落ちることを「墜落」と申します。
信仰のある人は、目的地をよく知っていて過ぎ行く景色を楽しみながら、着陸に臨みます。信仰の無い人は、機体が何処に行くのか知ろうともしないで、燃料の残量も知らずに無謀な飛行を続けますから、最後の最後の瞬間まで恐怖がつきません。
命が急に尽きるから人生は空しいのではないのです。行き先の分からない人生を無駄に過ごすことが空しいのです。
人は「ガンや脳卒中や事故で死ぬ」のではない、ということもどうぞご理解頂きたい。
人は「生まれたから死ぬ」のです。これこそが釈尊や親鸞聖人、蓮如上人が強調されたことではないですかあああ!!
この道理が分からない人は、人と生まれた喜びも悲しみも分からないことでしょう。本当に空しい人生になると思います。ご同情申しあげると同時に、一刻も早く仏法聴聞に励み、生死の問題の根源的解決に当たってください。
小林麻央さんのような事例があると、世間全体が空疎なセンチメンタルに陥り、また芸能人がウソ泣きして・・・そういうのは本当に正視できませんね。
旅立つという表現もいいですが、逆に「還(かえ)る」という表現もまた味わい深いものですよ。人生という旅が終わって、先祖の待つ心のふるさと、お浄土に還るという・・・。
お浄土、です。
天国に往きたい方はどうぞご自由に。
無に帰すという方もどうぞご随意に。
ただし、天国等々に往くための儀礼は当流では行いませんので悪しからず。
私は阿弥陀如来のお浄土に生まれたいと願います。
思慮分別を超えた、なんまんだぶつ・・・それだけのことです。そこにお浄土からの光明が差し込んでくる。
私(主観)が見たり・聞いたりする世界(客観)がお浄土ではありません。
主・客が同一の世界、私が光に包まれる世界がお浄土なんです。
往き先だけを各人、はっきりなさいませ。
いや、もうはっきりしているのです。煩悩という虚妄分別の雲に覆われているだけです。
光を仰ぎなさい!(なんか、最後のくだり、大川隆法みたいになったかな
?!)

4