ようこそ真光寺ブログへ。
初めてデザインを変更しました。
目指せ1000記事投稿!(2019・10月6日現在872本)
なむあみだぶつ
2017/10/18
えー、私、ネットの個人売買の「メルカリ」を始めてみました。
さっそくカバンが4000円で売れました。
さて門前の掲示伝道句を更新しました。字の大小のバランスに注目いただきたい!上手い下手は別にして見やすいでしょう?

『御文章』の「御正忌章」には、
人間は不定のさかひなり。極楽は常住の国なり。
されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。
との文言があります。私の好きな一節です。
人間世界は不定、すなわち諸行無常である。何一つ不変のものは無い。昨日の敵は今日の友、今日の友は明日の敵・・・今回の衆院選を見ていると、恥も仁義も約束もあったものではありません。
『観経』の登場人物ではないが、皆「権化の仁」を演じて“くださっている”のだなぁ、と味わう。
財産もそう、健康もそう。すべては移ろいゆく、ということのみが真実です。
それぞれ大事なことではありますが、そこに安住したり、過信してしまうということ、すなわち「頼りにならないものをあてにする」ことが落とし穴なんですね。
だからこそお念仏の教えの真実不変(普遍)性がいっそう明らかになってきます。頼りになるのは阿弥陀如来の本願です。
お念仏の教えが肌に合わないという方は、不定なる世界・事象に絶対の信頼を置いておられるという証にもなりましょうか。人間世界に絶対ということはあり得ません。人間世界のことは万事、ほどほどにお付き合いするにとどめておくのがよろしい。人付き合いも深入りはトラブルの元ですからね。
だからこそ、報恩講にお参りして信心のいわれを聴きなさい、と蓮如上人は仰いました。このお諭しは大変重要です。共々に心にとどめておくべきです。
この御正忌のうちに参詣いたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。もつてのほかの大事なり。そのゆゑは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。

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2017/10/11
ふと思い立って、筆のメンテナンス。
ネット時代とはいえ、住職はいろいろと書き物が多いのです。

お湯にシャンプーを溶かし、すすぎ洗い、その後お湯にリンスを溶かしさっと湯通し。水気を切って筆を下にして自然乾燥すれば、どんな筆でも驚きの書き味に変化します。新品の筆もこのひと手間を掛けるとよいでしょう(各自、自己責任でお願いします、結果の保証はしません)。
【弘法は筆を選(択)ばず】との有名なことわざがありますが、弘法大師はどんな筆を執っても美しい字を書く、という意味ですが、もう少し踏み込んで考える必要があるようです。
実際には筆を選ばなかったのは、中国のある有名な書道家のことを指し、弘法大師は「良い文字を書くには、良い筆が必要」と常に言っていたそうです。良い筆を求めて中国に渡り、独自の製筆法を作るほど、筆にはこだわっていたそうで、それが間違って伝えられたとの説もあります。
ある程度、筆の良し悪しはカバーできるとしても、わざわざ悪い筆を用いる必然性は無いのであって、どんな字を・どんな目的で・どんな紙で・どんな墨で・どんな大きさで書くのかの検討(その組み合わせは数百通りにもなるでしょう)が為されるので、どれでも良いということは全く有り得ないことだと考えます。
実際にありとあらゆる道具を駆使して秀作を遺された、それが弘法大師様なのです。ですから【弘法は筆をえらばず】とは「いつも違う筆を用いていた」とも解釈できるのでないでしょうか?
筆にせよ、外科医のメスにせよ「道具」という言葉がありますが、これは元来、仏教語です。各々の道を進む「相棒」となるもので、道具を粗末にする人はその道に暗いということだと思います。
昔、ウチに出入りしていた大工さんが、ノミやのこぎりを現場に放置したまま帰ったのを、子どもながらに見て「この大工さんはダメだな」と思いました。実際、仕事も粗い方でした。
電子機器のように誰が使っても違いがないという類のものではなく、手の微妙な感覚を研ぎ澄ませ、道具に愛情を持つということ、これはAI(人工知能)ではまだまだ追いつけない人間独自の領域なのです。

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