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目指せ1000記事投稿!(2021・2月1日現在918本)
なむあみだぶつ
2018/6/22
昨日6月21日午後2時より、第17回仏教文化講座 「聖徳太子の思想」を講じました。

レジュメ資料をアップしておりますので、真光寺ホームページ本編をご覧ください。
真光寺HP

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2018/6/14
先日、ふと、とある方のネット上の記事を読んで、「ん?!」と感じたことがある。
「愛犬〇〇が亡くなって丸一年、今頃お浄土から見守ってくれていると思います・・・」と。
ま、思うのは勝手だが・・・「果して動物は往生成仏できるのか?」という問題。
結論からいうと、・・・動物は往生できません。
じゃ人間は往生成仏できるのか?・・・条件付きで可能です。
今生において聴聞を重ねて信心を得れば、可能です。
死んだら往生、ではないのです。信心を得れば、という条件が必須なのです。
ゆえに如来さまの言葉を理解できない動物は浄土に往けないのです。万が一、動物の感覚に特殊な能力があって、如来さまの言葉を覚知できれば話は別ですが・・・。ここでは無視できるでしょう。
「・・・でも、阿弥陀様は手立てを尽くして動物をも救われるのではないですか?」とおっしゃる方もおられよう。でも往生がそんなに簡単ならば、世の中にお経もお寺も聴聞も何も要らないということになります。
さらには往生するか否か、信心を得たか否かは、純粋に自分自身の主体的な問題です。他人のこと、生物的他種のことを考える余地がそこにはないのです。
無難に、そして安易に使われる「救い」という言葉だが、「私」を離れたところでの浄土や救いなど、まったく意味はありません。ナンセンス、というやつです。
『歎異抄』の「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり」がまさにそういうことであり、親鸞聖人は一貫して「私の往生・私にとってのお浄土」を問題にしているのですね。
厳しいことを言うようですが、そこのところをはき違えては浄土真宗は「薄っぺらい癒しの物語」になる、と思います。「・・・悲しみに寄り添って」とか、今、そういう風潮を感じませんか?そんなことわざわざ宗教家が言うことですか?
ウチの祖母がよく言っておりました。
当時、我が家ではジャーマン・シェパードを続けて数頭飼っていたのですが、いつも「今度は人間に生まれておいでやぁ(お念仏に出会えよ)」と・・・。
これが正しい受け止め方であると思う。
私は聴聞が叶わない犬猫を決して不憫には思わない。動物は動物なりの幸せがあろう。
人間に生まれておきながら、真実の教えに出会うことなく、苦しみ惑いながら生涯を終えていく人をこそ、実に憐れに思うのである。
正信偈で「本師源空明佛教 憐愍善悪凡夫人 真宗教證興片州 選択本願弘悪世」
と、法然上人の哀れみの念が元で阿弥陀如来の本願の心を日本で広める契機となった、と示されています。法然上人の悲しみを、共感しなければならないですね。
お念仏に遇うとは、長い無明の夜が明けたことを知る、目覚めの体験です。世界の見え方が変わってくる、劇的な体験です。
可愛いペットの死を通じて、そこから私が何かを学ばないようでは、それこそペットの無駄死になりませんかね??

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2018/6/5
先にご案内しておりました、本願寺堺別院での【寺コン】は締め切り一週間前を以て、本日、男女とも定員の20名ずつ、計40人に達しましたのでご報告いたします。
当初は申し込みが振るわず焦りを感じましたが、中途から公共交通機関(南海電鉄)にもポスター掲示をお願いいたしました。参加申し込みの方以外にも、「本願寺」「堺別院」の名前が徐々に市民に浸透しつつあるものと悦んでおるところです。
詳細は堺別院のホームページをご参照いただきますが、キャンセル待ちの枠が若干名あるようですので、重ねてご案内申し上げます。
不安と期待を交えた申し込みの方々には、どうぞこの度のご縁を大切にお受け止め頂き、素晴らしい人生を送っていただきませんことを心より念じあげます。
個人的には当の縁談の企画は、別院の恒例行事としていただきたく思います。無論、全国の本願寺の別院において拡散・実現していただきたいと願います。
寺院や僧侶は社会における【トータル・ライフ・コンサルタント】としての位置づけを自覚してもいいんじゃないでしょうか?


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