2018/8/22
皆様、ご無沙汰しております。
お盆が終わり、とはいえ今頃くらいまでいろいろ残務があるのです。
また例年のパターン通り、といっては何ですがお盆明けにご葬儀が3件続きました。
疲れましたぁぁぁ。
夏に欠かせない汗しのぎである籐で編まれた【腕貫き】ですが、ハードなお念仏(!?)によりボロボロに。今シーズン、もう少し長持ちしてくれ〜。

草履もすぐに傷みます(奈良・中島草履製)が1足1700円なので気兼ねなく処分。

先日、テレビ番組で面白いことが取り上げられていました。
【お盆に7月盆と8月盆があるのはなぜか?】
東京や神奈川県の一部、北陸では石川県など、まれに7月にお盆を勤める地域があることをご存知でしょうか?都市部においては新暦上の7月盆が定着したのです。
先に正解を言いますと、お盆はズバリ、【7月15日】です。
根拠は『仏説盂蘭盆経』にそう書いてあるからです。
明治5年の夏までは全国的に7月15日を中心にお盆を迎えていたのです。
しかし同年12月3日が明治6年の元旦になりました・・・、そう新暦(太陽暦・グレゴリウス暦)が日本に導入された日です。
以後、ほぼ1か月が短くなった計算になります。現在の8月は旧の7月に相当します。暦の変更は実に混乱を及ぼしました。そこで新政府は国民に向けて「旧来の伝統的年間行事に関しては、旧の日取りをそのまま新暦上において踏襲する」旨の通達が出されたのです。
その結果、7月15日のお盆はそのまま新暦の7月15日に季節的に移行したのです。
しか〜し、それでは都合の悪い立場の方が出てきたのです。
上で「都市部においては7月盆が定着した」と記しましたが、郊外の農家の方にとって梅雨明けの7月中旬は草取り・防虫・施肥など農繁期に重なるため、お盆を迎える準備が困難として、丸々1か月間先送りしたわけです。
そう、それが今日の【8月盆】というわけです。正式なお盆ではありませんから別名【月遅れ盆】あるいは【旧盆】と称します。・・・あ、誤解の多いことですが【旧暦の盆】ではありません、詳細は割愛します。
そういうわけで真光寺では毎年、7月15日前後にお盆法要が務まっているのです。ご理解いただけましたでしょうか? 実に都市型寺院の先駆けなのですね!
先々代が石川県出身ということもあり、住職は7月盆に何の抵抗感もありません。8月はほどほどに過ごし、報恩講に向けての英気を養おうではないか!
大体、農家でもないのに月遅れ盆、って遅れてまで仏事をするのには違和感があります(意外なことに当方の門徒の中でお盆参りを希望されるのは1軒しかない、というミラクル。あとは信徒さんです)。
私は本来の7月盆を大いに広めて行きたいと思っています。
今年も大変な猛暑でしたが、ただでさえ繁忙の折「まだか、まだか」と電話を掛けられるのは甚だ心外(たとえば事前に11時から12時に行きます、と通知しているのに11時10分ころから立て続けに寺へ電話が入るなど!)です。もう少し時間の余裕が欲しいのです。
ウチでは丁寧な仏事を心掛けております。にわかの法務員さんを雇ったり、お経だけあげてさっさと帰るようなことはしないのです。
ですから、どうぞ皆様には急に7月に戻すのも抵抗がおありでしょうから、【7月から8月中旬をお盆月間】として、皆さまにとっても余裕のある日程をご検討いただきたいと思います。
「年忌法要の際には1日でも命日を過ぎたらタブーだという因習がありますのに、1か月もお盆が遅れてよくぞ平気でいられますね!」っていう論理に持っていきたい今日この頃です。
ともあれ、全国の同士の皆様、大変お疲れ様でした!

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2018/8/2
火星を撮ってみました。確かに赤い(オレンジ)。
450mm相当の望遠で、トリミングしたものです。

今回は火星で砂嵐が起きているそうで、望遠鏡でも「極冠」といわれる白く凍結した二酸化炭素(ドライアイス)が見られないそうな。
ワタクシ、こう見えても小・中学生のころは天文少年だったのです。
赤道儀で星を追尾しながら写真を撮っていました。月刊『天文ガイド』を愛読しておりました。
今ではデジカメの進化が著しく、暗い場所で広角レンズで3分くらいシャッターを開ければ立派に天の川が写るそうです。関西では奈良のちょっとした山間部に行くと贅沢な夜空を鑑賞できるでしょう。
ところで宇宙と仏教は非常に密接です。
宇宙は遠いと思えども、私が宇宙のド真ん中とも言えます。端っこがない(無限)から、どこでも中心と成り得るからです。(≒弥陀五劫思惟の願を案ずれば、親鸞一人がためなり)
阿弥陀如来や浄土は西方十万億土を超えたところにあるといえども、近道すれば南無阿弥陀仏の一声の中に浄土のはたらきを感じます(名声超十方)。
話せば長くなりますが、大峯顕先生亡きあと、宇宙と南無阿弥陀仏とをリンクして語る人はいなくなりました。
私見ですが、今、浄土真宗で語られていることは非常に人間の世界にこだわっておられるように思います。それゆえに阿弥陀如来の本願が取って付けたように聞こえ、ますます浄土が荒唐無稽に聞こえてなりません。僧侶自身に「願生心」がないし、・・・もう末期症状ですな。
念仏者の行動が社会に寄与するとか、しないとか・・・「婦人」という言葉を使うとか使わないとか・・・、なんだかねぇ。料簡が狭いね。
宗教とは「有限の私が無限の宇宙に触れて何を思うか、たまたま人界に生を享け死に行く人生をいかに処すべきか、という点を解明・体得するもの」だと思います。
【世の中がどうこう】、ではないと思う。【私がどうなんだ】、ということでしょう?
本山の安居(あんご;お勉強会)も終わりましたが、お聖教を読むということも大事ではありますが、言葉の解釈に終始しては本筋を逃すと思われます。そう、学問というものをも畢竟、超えていかなければならないのだから。
釈尊や親鸞聖人が何を言わんとされておるのか、今一度、念仏者ならば狭い部屋を出て、大きく息を吸って大宇宙と向き合っていただきたく思います。
僧侶は科学的知見も一通り体得すべきでしょう。そこから仏説の教示を辿りなおすことが、今、求められているように思います。

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