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なむあみだぶつ
2018/12/26
いよいよ年末、平成は来年4月末までとなりました。
先日の天皇誕生日に際し、陛下の会見がありましたが、非常に心動かされました。多くの国民が固唾を飲んで拝聴されたと思います。
元より、今上陛下のスピーチは分かりやすく、多くの人の耳にも心にもやさしく届きます。ありとあらゆる立場の人を対象にしています。最高の話し手であると思います。比べるのは失礼ですが、我々僧侶も、穏やかで万人に届く表現方法を目指すべきではないでしょうか。
このたび私は陛下の「象徴」という言葉に、特に注意を払って聞いておりました。
以下、お誕生日の会見原稿より抜粋。
私は即位以来,日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。
先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。
天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の一人であった皇后が,私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労ねぎらいたく思います。
特に中段の箇所では、天皇を象徴としたことで諸外国も敵対心を向けなかったのではないか、とさえ思います。日本に過激な指導者が居たらどうなっていたかは分かりませんよ。
象徴・・・ 直接的に知覚できない概念・意味・価値などを、それを連想させる具体的事物や感覚的形象によって間接的に表現すること。また、その表現に用いられたもの。例えば、ハトで平和を、王冠で王位を、白で純潔を表現する類。シンボル。
などと辞書で定義されています。
日常的な言葉ではない、哲学的な意味なので大衆の理解は難しいかもしれません。
しかし、陛下は日本国憲法に記された象徴としての天皇のお務めを、即位已来模索され続けてきた、という点に心を揺り動かされた次第です。
先代までは「天皇=神」であったわけですから、その現代的解釈に腐心されたことでしょう。また皇居に留まらず、ご老身を圧しての各地への巡幸も象徴としての務めです。じっとされない、動く・話す「象徴」というのもまた類を見ないことです。
翻って、明くる1月には西本願寺で親鸞聖人をお偲びする【御正忌報恩講法要】が一七箇日(一週間)において厳粛にお勤まりになるわけですが、ズバリ、親鸞聖人は念仏者・真実信心の「象徴」と、私は理解するものであります。
「親鸞聖人を拝んでどうなる、阿弥陀如来を拝すべし」、という声も一理あるように思えますが、事はそう単純ではありません。どっちがどう、という相対的な問題ではありません。「親鸞さま、ありがとう」とかいうのも実に軽い感じで実感がないですね。
阿弥陀堂の御修復がはじまり、御影堂の中央には御真影の場所に阿弥陀如来がご遷仏されました。いつもと違った雰囲気ですが、この妙縁も改めて浄土真宗の象徴とは何か、ご本尊とは何か、といった議論に発展することでしょう・・・いや、あんまり深く考えるということがこの教団にはもう無いと思います。
ご本山の報恩講といえども、いまいち盛り上がりに欠けるご時世、一般寺院の報恩講においても消化試合のようなヌルい雰囲気が蔓延しております。
・・・象徴について、陛下のお言葉より大きな示唆を頂いた思いです。

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