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目指せ1000記事投稿!(2019・10月6日現在872本)
なむあみだぶつ
2019/1/18
先日ご葬儀のあった、とある方とのやりとりです。
月半ば以降に亡くなったならば、49日は自ずと3カ月に渡るわけですが、いまだに!平成も終わろうとしているこのご時世に!土田舎村大字1番地でもないのに!、「満中陰が3カ月に渡るから、35日で切り上げてほしい」という要望があるのです。全国的にお心当たりあることでしょう。
喪主さんは私の説明を聞かれて、語呂合わせの言葉遊びに過ぎないことをご納得いただきましたが、「やはり、親戚がうるさいので」という、これも教科書通りのお答え。
何処の世界でも、親戚って難しいですね。【お金出さないで、口だけ出す】ってアレですわ。
結果、じゃ好きにすればいいじゃない、ということで35日を予定するのですが、こういうことを気になさるお方にはその後の法話は一切、通じません。
2週間早いだの遅いだの、はこの際、どうでもいいのです。
問題は、故人が死後どうなったのかという意識、仏法を聴くという意識を決定的に欠いている点です。
私はこの点、オリジナルのリーフレットまで作って、法話もした上で僧侶としての【説明責任】を果たしております。
ですが、経験上、その後、何を言っても通じないのです。
この場合、先の投稿記事ではないですが、「話せば分かる」という妄想を捨てることです。
ま〜、しかし迷信のしぶといこと、しぶといこと。
そういう前近代的な思考の方が、この世にウヨウヨいるということ。
これを【亡霊】と呼びたい。
結果としてそういう人々に合わせないといけないということ。
専門家たる住職の言うことを聞かずに、世間体の愚説に翻弄されているということ。
・・・ホントに疲れますね。ボクは経読み坊主じゃないんだから。
頼んますわ、ホンマに。

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2019/1/13
国家間・ご近所間・家族間等々、人間の居る場所では必ず、何らかのトラブルがつきものです。トラブルは無いに越したことはないのですが、その対応の仕方を少し考えてみましょうか。
@ 【鈍感力の発揮】
人は人、私は私。私が思っているほど、人は私のことを気にしていない。去る者追わず、来る者拒まず。その時はその時。
A 【無常観に生きる】
昨日は昨日、今日は今日。
未来志向の人と付き合うべし。昔話は聞き流す。
B 【穏やかな人に近づく】
危うきに近寄らず
C 【独生 独死 独去 独来(『無量寿経』)】
人間は所詮ひとり。人間関係を重視するな。
D 【共にこれ凡夫ならくのみ(『十七条憲法』)】
所詮は娑婆世界の仮の出来事。人間がやる事に真実はない。
E 【蓼食う虫も好き好き】
価値観の相違は埋められない。人のことは放っておけ。
といったところでしょうか。
人間はみな、自分が正しいと思いこんいます。正しいと考える尺度はそれぞれです。
物差しが示す1mは世界のどこでも1mですが、人間はそれぞれの尺貫法を持っています。
そんな者同士が、ずっと仲良くいられるハズが無いのです。
「話せば分かる」などという妄想は捨てましょう。
心穏やかに生きるには、特に冒頭に述べました【鈍感力】が必要です。
年を重なられますと猶更、鈍感力を大いに発揮なさるといい。
やれ認知症だの、物忘れが激しいなどと悩む必要は全くありません。それは生物の進化の過程で、長寿を得るには体の健康と共に、心の安定が必要だ、と細胞レベルで判断しているからではないでしょうか。
昔の人は認知症になる前に死んだもんです。長生きしておいて認知症に悩むなど、勝手が過ぎますよ。長生きを人生の目的にすると、迷いが深まるばかりです。
それまでの膨大な人生の記憶や、人間関係を抱えて長生きするなど、心身への負担が大きすぎる、と脳細胞が自己制御して認知症になるんじゃないか!?と。
「あの人、ホント、マイペースなんだから」っていうのは貶し言葉ではありません。褒め言葉として自分もマイペースで生きましょう。周りのご長寿の方をご覧なさい、ある種、鈍感な人が多くないですか?
認知症は周りは大いに困りますが、自身は楽でイイんじゃないか、と思います。
人間ほど面倒臭くて、厄介な生き物はこの世に居ないと説くのが仏教です。
仏教が基本、厭世(出家)主義なのはこういうことです。
人間関係をスムーズにするには、人間関係を断っていくことも時には必要です。
今年は数通の年賀状に「これで最終の賀状とします」旨のメッセージが届きました。さもありなん。

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2019/1/6
皆様、明けましておめでとうございます。
今年もコツコツと愚見を述べさせて頂きます。

年賀状をそのままアップしました。

今年も色々とやることが多いなあぁ。
先だってやれることはこなしていこう!

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