2019/12/12
報恩講に関して、あらためて「恩」について考えてみましょうか。
仏典には代表的なものとして
(1) 『心地観経』の説 (父母の恩、国王の恩、衆生の恩、三宝の恩) 。
(2) 『釈氏要覧』の説 (国王の恩、父母の恩、師友の恩、施主の恩) 。
はたまた (3) 『平家物語』の説 (天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩) 。
などがある。もろもろ調べていて注目したいのは、インドの仏教は縁起(相互依存)の思想によって人間の横の結びつきを重視したのに対し対し、中国の儒教は忠孝を説く五倫五常(精神的秩序)の思想によって人間の縦の関係に注目したが、この考え方の違いが恩の観念にも反映したという点である。
仏の恩、三宝(仏法僧)の恩は、仏教の恩として首肯できるが、そこに国王や父母への恩となってくると、儒教的な封建道徳観念(タテのつながり)が入り込むことになり、それは仏教として果たしてどうなのか?という疑問が沸いてくるのです。
かつてご葬儀でのおかみそりの儀に用いていた『清信士度人経』の「流転三界中」の文には
流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者(三界の中に流転して 恩愛断つことあたわずとも、恩を棄て無為に入るならば、真実に恩に報いる者なり)、とあるのはこれ如何?!
これまでとは真逆の「親の恩や肉親への情などは捨てよ。それが仏道であり真に恩に報いることになるのだ」といっているのです。親鸞聖人も「父母の孝養の為に念仏申したることいまださふらわず」とも・・・。
さぁ、エライことです!
個人的には執着やしがらみにつながるような恩はどこかで断ち切った方が良いと考えるようになりました。インド的な横へのつながりを重視する未来志向の恩ならば、意義のあることだと思います。
翻って報恩講法要は、親鸞聖人の御出世の御恩を説きますが、全体的には阿弥陀如来への恩徳を謝すべしとされ、法話のたとえ話では具体的な親への報徳を説いたりと、恩の主題がイマイチはっきりしないと思います。聴聞していましても、仏法を聞いているというよりも、むしろ儒教的な孝行話を聞いているかのような印象があります。話のすり替えが横行しているといえば失礼でしょうか?
新たな参詣者へ参拝を促すのですが、報恩講の説明が難しいことを痛感します。「あなた様も御恩に報いてください」、などとは言えません。
伝統的な農村社会では何の疑問もなく報恩講が勤まっていくのですが、都市部寺院における伝統的行事の進め方について、大きな岐路に立たされています。もう精神的にしんどいのだ。

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