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なむあみだぶつ
2020/8/24
結果としておススメの本ではないが、あの石原慎太郎氏がどのような死生観を持っているのか興味を持ったのが当書です。
石原慎太郎氏については今更紹介も何もないが「暴走老人」とも称される、元気いっぱいの御仁である。齢88(もうそんなに高齢だった?!)、『太陽の季節』そのままの人に「死」だの「老化」という言葉はおおよそ似つかわしくはない。・・・そんな人にとって死とはどう映るのだろうか。

対する曽野綾子氏はキリスト教への信仰が人生のベースとしてあり、自らの死に対しても受け入れは何時でもOKといった感じで、達観されている。石原氏はそんなものはまだまだワシには無縁だという態度に一貫されていると言えよう。
ともに稀代の作家による忌憚無きダイアローグであるが、我々一般人にとっても、お二人の相反的な考えのどちらかに収斂されていくであろう。こういう対話形式の本は面白いものです。
コーヒーを飲みながら2時間くらい喋って本にした感じの、読みやすい本ではある。
石原氏は法華経(とくに第16「如来寿量品」を推す)の崇拝者だそう。
・・・いや、石原氏は畢竟、信仰として仏教をとらえているのではなく「哲学・体系」としてしか仏教を捉えていないのだ。すなわち石原氏には「来世観」というものは無く、自らの生死観として受け入れがたいようだ。
対する曽野氏は純然たる「信仰者」の立場にあり、住職として、仏教徒として私は曽野氏のお考えに共感する箇所は多い。
さて、ご縁があれば直接、石原氏にお話ししたいのだが、石原氏はご尊父が熱心な念仏者であったにも拘らず、先ず仏教への理解が不十分である。 本書の90頁にはこうある。
【そういった考え(キリスト教の来世観を受けて)は、仏教にはないですな。お釈迦様はまったくそのようなことは言っていない。仏教での来世は平安時代末期に浄土宗の法然が、人々の恐怖を救うために言い出したんです。極楽というものがあって、南無阿弥陀仏と唱えれば救われると。今でいえば一種のセールス。・・・だから僕は、死は「最後の未知」だと思っていて、何とかそれを知りたいわけです】
とある。ここには絶対に看過できない誤謬が3点ある。
@ お釈迦様は確かに極楽が“ある”とは言っていないが、極楽世界を“説いて”いますが。
A 仏教での来世は法然や親鸞が言い出したことでなく、既に浄土三部経に説いてある点。
B 「最後の未知」を啓蒙するのが、浄土教であることをご存知で無い。
私は石原氏のみならず、浄土教(念仏)に懐疑的なすべての人々に申し上げたい。
◆宗教(信仰)は人間の知識や経験を土台にするが、最終的にそれらを止揚(デカルト的に言えばアウフヘーベン)するものである。
◆上を受けて哲学とは、観念遊戯・脳内散歩・教授や評論家の食い扶持に過ぎない。念仏も僧侶の食い扶持であることは否定はしないが、それ以上の価値を提供している自負がある。
◆論理や数式や言葉で宇宙やいのちを「理解」は出来たとしても、現在の人生苦から逃れることは出来ない。
◆死生観は個人の問題ではなく、家族や周囲の人にも多大な影響を与える。石原氏のように死んだら無に帰すとか未知とかいっても、遺族や知人は死者に寄り添うが、追悼の拠り所を奪ってしまうことへの道義的責任は如何に?
◆騙されたと思って、心から南無阿弥陀仏を称えて欲しい。
以上、寸評了。

7
2020/8/8
お盆参りが本格化し、通常の月参りの倍以上の軒数を回ります。
特に初盆(・・・地域によって新盆【あらぼん・しんぼん・にいぼん】など多様)の御方はより丁重にお勤め下さいます。
ただ・・・訪問時間の解釈をめぐって、ここ1〜2年、困ったことが起きています。
といいますのも、
【お盆は繁忙期ですので、〇〇様へは8月10日の10時から11時の間にお伺いします】と口頭でお伝えしている場合、皆様はどのように理解されますか?
当方としては「〇〇分までは指定できないが、10時から11時の間に訪問します」と、余裕をもってお待ちください、とお願いしており、その場で了承頂いています。
ですから10時5分に行く場合もあれば、10時50分に到着する場合もあるわけです。
これを最近では「10時ぴったりに来て、11時に戻る」と解釈される方が増えてきたのです。今日もかかる例で、10時5分に電話があったことに驚いています。
・・・一体どうしたものでしょうか? 国語的な問題だと思うのですが、なかなか厳しいものがあります。5年前まででも無かったことです。
来年からは、口頭では伝わらないので、初盆の方だけでも改めて数日前までに文書でお伝えしなくてはならないことになります。
お待ちいただいているのは有難いことですが、すっきりしません。
他のご寺院様のやり方は分かりませんが、当方では定刻のお約束をするのは【通夜・葬儀・年忌法要・納骨】のみです。
何卒ご理解のほど、お願い申し上げます。

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2020/8/5
今年のお盆(休み)はどうなるのでしょうか?
GO TO キャンペーンの推奨と矛盾する帰省自粛要請・・・。
興味深いことに4月の緊急事態宣言下では月参りや法事のキャンセルが相次ぎましたが、今月8月1日より本格的に始まったお盆参りの御断りは、大阪市内に出向く1軒のみがお断りがあっただけで、おおむね例年通りの予定です。
コロナ禍でなくとも、特に猛暑の折、過密集中を避けるべきだと思います。
私は特に昔から行列や道路渋滞、受付の待ち時間などが苦手で、それだけでかなりのストレスを感じます。時間から解放されるのが休暇なのですが、休暇まで時間に縛られるとは言語道断です。
日本人は・・・って言い方は好ましくないのですが、事実としてやはり「農耕民族的・集団行動習性」から抜け出せないのではないか、と思います。
とにかく、みんなと一緒。集まって何かをするのではなく集まること自体に意味を見出す。
とにかく、風習・習慣を崩さない。間違っていると思っても年長者に逆らわない。お盆は7月15日だってのに8月(旧盆・月遅れ盆)にこだわる。どこにも13日に先祖が還ってきて15日に戻るなんて書いてないのに、とにかく日にこだわる。
・・・そういった結果が今年のお盆の悪夢を招くのですがね。さらには小中学生の夏休み短縮に伴うレジャー客の集中が重なり、大変恐ろしいことになりそうです。
8月末までに大阪府内で日々600〜700人、東京では日々1000〜1300人程度の新規感染者を数えるのではないでしょうか?
学校の休みは仕方ないとして、子どもに付き合う必要のない方は、昨今の「働き方改革」もあることだし、自由に休みを取ることが何故出来ないのだろうか?繁忙期に外出することでコストもアップもする・・・。
コロナ対策にしても、政府はいい加減だ、誰の言うことを聞けばいいんだ?との文句の嵐。
もういい加減「自分で考えて自分で決めよう」ではないか。
自由とは何だ?
「自らに由(よ)る」ことだ。
仏教は「自灯明 法灯明」とお釈迦様が遺言されたように、自己の独立・他律からの解放をを説くものではないかな?
真光寺の門信徒の皆様にはお盆参りの分散にご理解をいただきありがとうございます。
私は住職として重み(体重のことか?!)を出していかねばならない年齢層になってきましたので、お経のデリバリーサービスみたいなマネは致しません。
今夏は時間を遣り繰りして子ども達とじっくり向き合い、勉強をさせます。
いや【勉強の仕方】を教えます。そう【勉強を教えるのは学校の先生の仕事】です。【仕方を伝授するのは親の務め】です。
子どもと行楽地で夏の思い出作りは?・・・そんなの今年は有り得ない。
令和2年はコロナで大変だったな・・・、が思い出だ。
皆様も人と同調しないで、自分で密を避けた生活様式に変えていってください。
「人の行く 裏に道あり 花の山」っていう投資の格言がありますが、万事に通じますよ。

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