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なむあみだぶつ
2020/12/15
おおむね、今年度の報恩講は西本願寺の御正忌報恩講を残すところとなりました。
真光寺の報恩講は先にご紹介した通りですが、遅ればせながら住職作成の法話プリントをご紹介しましょう。今回はご講師をお呼びしておりませんので、持ち帰ってご家族皆さんにも味わっていただけるように意図しました。
ご覧のように砕けた文体です。これくらいの気の抜けた法話の方が伝わりやすいかな?と思っております。転載等ご自由に。
クリックすれば拡大します。


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2020/12/7
今年の一字、清水寺さんの貫主さんは今年は何を書かれる(そもそもは日本漢字検定協会が選ぶ)のでしょうか?

私の主観では「禍(か)」ですね。コロナ禍の禍、災いということ。
昨日聞いたニュースでとても驚いたことがありました。
来年にもいよいよワクチンが入ってくるのですが、なんと半分くらいの人が「様子を見てから打ちたい」との観測で、すぐにでも打って欲しい(私が該当)が7%しかいないという有り様。全体でも半数くらいが不安だとのことです。
難しいものですねぇ。国も様々な方策を打ってくれているのですが、ワクチンこそが最大の防御手段なのに、それを様子を見てから、というのでは混乱があと1年は続くと見ました。
早くワクチンを、と急かしながら、今度はちょっと待ちたいという。
こんな身勝手なことありますか!? そりゃ中には副作用もあるでしょうよ。
ここにいかにも日本人的なというか、「リスクの考え方」が如実に表れました。
「リスク」という言葉は巷でよく聞かれる言葉ですが、正しい意味を理解している方は1割くらいでしょうか。
「リスク」を危険性と訳すのは誤訳なのです。正しくは「不確実性、uncertainty」なのです。
95%という確率を見て、9割以上安心だと考えるか、5%の不安を取るか、公衆衛生を考えれば、ここはリスクをプラスに計量すべきなのです。
マスクや消毒をしないのはもはや自由ではありません。同様にワクチンを打たない自由ということも議論が生まれるでしょう。
また、お参り先では80代の方々が、コロナ禍を通じてリアルに生き死ににかかわる、他人事ではない出来事として懸念されておられます。当然のことです。
一方で毎年、風邪をこじらして肺炎で亡くなる方がたくさんいるのですが、普段はそういうことには思いもよらない。また自殺者数が毎年2〜3万人いるということも普段は意識しません。
全世代を通じ、普段は生き死にのことをリアルに考えてらっしゃらないのですね。
ここにこそ、宗教性が軽視されている遠因があるように思います。はっきりいえば私たちが死なないのであれば、信心・念仏の教えは全く必要がありません。人とうまく付き合うのにどうすればよいのか、なんて阿弥陀如来に聞いてみても全くのお門違いです(でも若い僧侶はこんなどうでもいい質問にもご丁寧に答えてくれるみたいですね!)。
と言いますのも、蓮如上人は『御文章』の4帖目第9通「疫癘(えきれい)の章」に、
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。
訳・・・このごろ疫病が流行り、多くの人々が亡くなっておられます。しかし、人は疫病が原因で死んでしまうのではないのです。死ぬということは、生まれたときから定められていることで、そんなに大層に考えなさんな、と。
疫病による死は「縁」であって「因」ではない。因は生れてきたことそのものだというのです。実に明快な解釈です。人はコロナやガンに罹患したから死ぬのではないんですよね。
【生は偶然、死は必然】とも言います。
「生まれ難くして生まれてきて、必ず死ぬるを知る」のが仏教の大前提です。これを理解いただかないと、宗派を問わずに仏法が机上の空論になります。
誤解いただきたくないのですが、仏教は厭世(えんせい;逃避)主義ではありません。
御文章には続けて「そのような私たちに対しはたらきかけをしていただいているのが、阿弥陀様であるということ、我利私欲の生活から逃れられず、自己中心的な考え方に陥りやすいこの私。思い通りにはならないため、不満や不安を抱えたまま生きていくしかないこの私を、そのままの姿で救う、と。
いかなる罪悪深重の者でも、いつでも、どこでも、だれでも救われる法が阿弥陀仏の本願です。生死の一大事を阿弥陀様におまかせし、お念仏の生活をすることで安心を取り戻し、感謝して日暮しをしてはどうかと言われているのです。
このことがどうも世間に伝わっていないようです。
実に前向きな教えではありませんか?
人間の苦悩は人間では解決できないわけで、それを解決するのが宗教なのです。心の師匠である奈良の大峯 顕先生は常々仰っておられました。

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