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なむあみだぶつ
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2020/6/21
先の記事の続きですが、こういうことなのかな?ということに気づきましたので補足しておきたいと思います。
近ごろの本願寺派の風潮である「阿弥陀さまがごいっしょです」的な論調は、おそらく親鸞聖人がいわれた【現世十益(念仏者に備わる10の御利益)】の中、
第6【心光常護の益】
・・・信心を得た者は、如来の光明に包まれ護られる
第7【心多歓喜の益】
・・・信心を得た者は、心に得も言われぬよろこびに満たされる
を根拠にされているのだろうと思われます。
しかし、ごくごく当たり前のことなのですが、漠然とその利益がどんな人にも与えられているのかというと、そうではないでしょう。「信心を得た人は・・・」という大前提がなければ話にならないのです。
先に引用した、浄土真宗本願寺派のwebサイトで主張されている中身には、全くもって信心という概念が欠落しています。
信心を得た人が如来に護られているという安心感を得るのであって、如来に護られていることを知って信心を得るのではない。すなわち本末顛倒ではないか?ということを言いたいのです。
信心の文脈がなければ、あらゆる文言の「阿弥陀如来」の箇所を「キリスト」「天照大御神」「偉大なる指導者」に置き換えても不都合は生じません。
お分かりいただけるでしょうか?
浄土真宗が信心を捨てたとき、教団や寺院の終わりを意味するということを。

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2020/6/18
久しぶりに、西本願寺のサイトを見たら体裁が変わっている。

(西)本願寺、じゃなくて「浄土真宗本願寺派」が表立っている。
以前より宗本分離といって、宗派と本願寺を分けるという、混乱を招くこととなって久しいが今回のサイト更新で、より「宗派」が表立って主張してきたということか?
・・・初見の人は「浄土真宗」「西本願寺」などと検索かけてくるだろうが「浄土真宗本願寺派」が最初に上がってくることに違和感を感じることだろう。
トップページの左下にポツンと「お西さん(西本願寺)」をリンク。
オイオイ「お西さん」はないだろう・・・。「西本願寺(お西さん)」だろう?
内容がまた痛い。若い僧侶が書いたものだろう。上層部の確認はスルーだろうと思われる。
長文です(もっと短くしろ!)が、そのまま引用しましょう。赤字は私が??と思う箇所です。
【浄土真宗は、出会いの仏教】
人生は出会いの連続です。
誰かとの出会いによって世界が広がったり
何かとの出会いによって新しい自分に気がついたり
苦しみとの出会いによって深く傷ついたり......。
出会いによる、よろこび、悲しみを繰り返しながら
私たちは今日も生きています。
浄土真宗は、そんな出会いを大切にする仏教です。
特に大切にしているのは、阿弥陀さまという仏さまとの出会いです。
阿弥陀さまは私たち一人ひとりを「かけがえのない尊いいのち」とみてくださっています。
どんなことがあっても寄り添ってくださる仏さまです。
阿弥陀さまとの出会い。
それは、阿弥陀さまに見まもられている
尊い自分自身に出会うことでもあるのです。
阿弥陀さまと出会えるという、希望。
出会えたという、よろこび。
今、この時代を生きる私たちもきっと、感じることができるはずです。
【居場所に出会った親鸞聖人】
あなたに居場所はありますか。
普段なかなか気づかないことですが、私たちは、家庭や学校、あるいは社会の中で自分を受け入れてくれる「居場所」があるから、頑張ることができていると言えます。でも、頑張りたくても頑張れないときもありますよね。元気そうに見える人でも、もしかしたら孤独や寂しさにさいなまれて「居場所」を失っているかもしれません。そんな思いを抱いてしまったとき、どのように生きていけばよいのでしょうか。
親鸞聖人しんらんしょうにん(=親鸞さま)も、自分の居場所に出会うために大変な努力をされた一人です・・・・。
【ありのままの自分との出会い】
親鸞さまは、在家出家や老若男女を問わず、さまざまな人と出会いながら仏道を歩んでいかれました。そうするうちに、物欲や誘惑といった"煩悩(ぼんのう)"に右往左往する人間の姿を目の当たりにします。欲望のためには人をも傷つけてしまう鬼のような恐ろしい心を持っているのが人間であり、親鸞さま自身のことだと気づかれます。
それは、今を生きる私たちに置きかえても何ら変わりありません。「ブランドのバッグがほしい」、「新しいスマホがほしい」、「もっとフォロワーが増えてほしい」......。このような願いは、自己中心的な心から日常的に多くの人の心に湧き起こっています。目先のことに一喜一憂して「迷いの世界」で欲望にふりまわされ、苦しむ姿そのものです。
このような私たち一人ひとりをすくおうとされているのが阿弥陀さまなのだということに、親鸞さまは気づかれました。
【「あなたのままで大丈夫」。阿弥陀さまとの出会い】
鎌倉時代であっても今の時代であっても、生きづらさを感じ、孤独に苦しむ人に向かって「あなたのままで大丈夫」と、居場所となって本当の安心を届けて支えてくださるのが阿弥陀さまです。
人は社会の中で、大勢の人と関わりあいながら生きています。ときには「誰ひとり、私のことを気にかけてくれない、わかってくれない」と思うこともあるでしょう。「何もかもうまくいかない」と落ち込むこともあるでしょう。人との付き合いが苦手でも、心ない人から「負け組」なんて言われようとも、阿弥陀さまは私たちのことを一人ひとり大切に見まもってくださっています。「いつも私がそばにいるよ」と、ありのままのあなたを認めてくださるのが阿弥陀さまなのです。
【声の仏さま「南無阿弥陀仏」】
「南無阿弥陀仏」をご存じですか。もしかしたら、仏さまに願いごとを伝えるときの言葉だと思っている人もいるかもしれません。「阿弥陀さま、どうか私を助けてください」「南無阿弥陀仏、どうか私の願いを叶えてください」というように。でも「南無阿弥陀仏なもあみだぶつ」は、願掛けのセリフではありません。阿弥陀さまが私たちに向かって「私にまかせなさい、あなたを必ずすくうから安心して生きて」とよびかけている、"よび声"なのです。そして、そのことに気づいた私たちが手を合わせて「南無阿弥陀仏」をお念仏としてとなえることは、「阿弥陀さまにおまかせします。阿弥陀さまにおまかせして人生を歩みます」という、感謝の意味となります。
【豊かでしあわせな人生へ】
私たちの人生には、確かに苦しいことがたくさんあります。自分自身のふがいなさに情けなくなることもあります。でも、私たちの生きる世界を超えた大きなはたらきが私たち一人ひとりを見まもってくれていることに気づけたら、たとえ世界中の人から背を向けられようとも、生きていく大きな力となります。それが"阿弥陀さまとともに人生を歩む"という生き方です。阿弥陀さまに見まもられながら生きていくことで、心がやわらぎ、豊かな人生を送ることができることでしょう。
でも、ひとりではなかなかそこまでたどり着けないかもしれません。「限りある人生を豊かに、しあわせに生きる道」。そのことを聞くことができるのが、浄土真宗のお寺です。そう。あなたが生きていくうえで本当に必要な「出会い」は、もしかしたらお寺にあるかもしれません。何かのきっかけがあっても、なくてもかまいません。お寺に出掛けてみませんか。人生を、そして毎日を豊かに、しあわせに生きるヒントが得られるかもしれませんよ。
端的に言ってその内容からは「本願・浄土・往生・信心・念仏」といった浄土真宗という仏教に欠くべからざる用語は一つも見当たらず、極めて現代的な、SNS上で右往左往する未熟な若者の悩みである「居場所を見つける」とか「そのままでいいよ」といった内容、これは全く以て自己啓発の類であって宗教ではない!!!
「救う」という言葉の意味は「あなたの現状認識が阿弥陀如来によって変わって心軽く生きられるよ」、という意味ではない。後生の一大事、すなわち私が死んだらどうなるのか、という問題が明らかなることです。「いつも私がそばにいるよ」って、お前、青山テルマか!
そろそろ本山への「賦課金納入時期」が近づいている中、門徒衆から懇志を納めて頂いているわけですが、本山がこういう内容を是とされては門徒衆に心から申し訳が立たないし、もう未来はないだろうね。宗派離脱する寺院も出てくるだろうから、相応の覚悟はしておいた方がいいよ。
たまたま、YouTubeで1986年録画の、大阪の光蓮寺・稲城選恵和上のご法話を聴聞したのですが、その内容に久しぶりに心震えました。そのギャップたるや、もう・・・。
・・・私は今、愕然としています。坊さんになって27年経ちますが真面目に勉強して博士号取って、寺院護持に勤しみ、ブログ900本弱投稿して、寺報もせっせと作っていることすべてを否定されたような気がします。
当ブログの読者は読解力のある御方ばかりですので、誤解はないと思いますが、世代間によって真宗の理解の幅があることは否定しません。しかし、750年以上の伝統を有する宗派のサイトで主張する事ではないと思います。
適当なWebを構築するならば、もうWebそのものを止めてもいいんじゃないかな?
寺院はもっと神秘性・秘匿性を持たせた方が、足を向ける人が増えると思います。Webを開設して本山の懇志は増えたのですか?むしろ減っているでしょう?観光客は少し増えたかもしれませんが。
宗教とインターネットの試みは失敗したと思います。本質を理解している人が京都にはいないと思います。
温厚な私を怒らせるとは相当のことです、ハイ。

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2019/7/11
故・ジャニー喜多川さんのご尊父って、真言宗僧侶でアメリカ開教をされていたんですってねぇ。イメージと違った温和なお爺さんの風貌でした。日本の芸能界は大転換期を迎えることです。
さて、2018年11月に、本願寺のご門主様は「中学生にもわかる指針を」との方針のもと、以下の『私たちのちかい』を発布されたのでした。
私たちのちかい
一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
しなやかな心と振る舞いを心がけます
心安らかな仏さまのように
一、自分だけを大事にすることなく
人と喜びや悲しみを分かち合います
慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
一、生かされていることに気づき
日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
人びとの救いに尽くす仏さまのように
これを受けて、本願寺出版社から釈徹宗氏による『「私たちのちかい」の味わい』という冊子が発刊されました。

上の4箇条のちかいに関する受け止めはいろいろあるようで、以下をご参照あれ。
リンク;【私たちのちかいの反応】
さて、冊子の感想は、ズバリ言わせていただくと、せっかくご門主が簡潔な言葉でまとめられているのに、学者臭い、わざわざ難しい語句(例:近代成熟期・フェアとシェア・ノーマライゼーションブディズム・中間共同体、云々)を引っ張り出してきて、かえって難解にしているなぁと思ったことです。
だってそもそも失礼でしょう、ご門主が簡潔に、といって出されたものの解説となると、逆にご門主の言葉が難しい、という逆証明になる。
だいたいやねぇ(故・竹村健一氏へのオマージュ)、タイトルの「・・・味わい」だなんて、味覚は主観だ。そんなものはTwitterでつぶやいておけ。
中高生向けと言われているのに、大人どころか、ごく一部のインテリ(そもそもインテリなんぞ宗教なんか相手にしないが)向けという印象が否めません。ご門主のお言葉が筆者の主張へと誘導されている、利用されているとさえ感じます。
本山ももっといろんな人の手に解説を委ねたら良い、と思うのですが、近年、特にこの著者への執筆依頼に偏ることが顕著であり、非常に危惧を抱いています。私はこんな輩に洗脳されないぞ!
私はこの「私たちのちかい」は要するに、若者向けの倫理の手引きであろうと思っています。宗教的な見方で見れば、疑問に感ずる(4箇条すべてが真逆の私であると知らされるのが宗教だから)のは確かではある。でも倫理と見ればOKだろう。
そもそも中高生に宗教、なんてあまりに重いと思いますがね。中高生は宗門校生徒であろうとなかろうと、基本的な国語とか哲学とか倫理を学んだ方がいいですよ。勉強は基礎が大事です。念仏を称えている中高生って、なんか不気味だ・・・言うたった!
昨今の寺院活動の停滞というか、その方向性が見いだせないところの原因は【宗教・倫理・道徳・教義・実践】をごちゃまぜにしているからだと思う。人材育成にしても下手にオールラウンダーを育てようとしているのではないか、とさえ感じる。
中高生にまずは仏教をベースとした倫理を叩き込む、・・・これは結構なことではないかと思います。しょうもない批判をせずに、かかるご門主の御意向を先ずは汲むべきです。

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