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なむあみだぶつ
2021/1/6
先に上げた年賀状のイラストを見て「十牛図の一つか」、と思われた方は寺院関係者の中でも案外少ないと思われます。
今年は丑年、私の当たり年でもありますから殊更に興味深い内容と思い、年賀状に絵を書き添えました。
十牛図とは何か、ちょうどいい外部サイトがありましたので、ご参照ください。
【悟りに至る過程を段階的に描いた十牛図】
この話とよく似ている西洋の童話が、
【青い鳥・・・兄チルチルと妹ミチルの物語】
です。
ともに「悟り」や「幸せ」という人生の大目標を求めて外に出る話ですが、結論は身近にあったのだ、とする展開です。
十牛図は禅における悟りへの階梯の話ですが、真宗的に見ても面白い話です。
求道・信心への過程が疎かになってはいけません。本山から発せられる仏法の内容はゴールから始まりますから、初心の者には一体何のことやら分からないと思います。丁寧に丁寧に、求道者の心理変化の過程を追従し、信心への味わいを深めていくべきでありましょう。
また、家にある仏壇を時代遅れのお荷物と思い、若い時分は遊学・放蕩したけれども、年老いて改めて南無阿弥陀仏、と自然に称えていたことに気付かされました、と言われる方も少なくありません。
大切なものは既に私たちの身のかたわらにあるのです。

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2020/10/25
先日来、YouTubeに数ある投稿動画の中、皆様に親しんでいただける仏教関連の映像が無いかと見ておりまして、今のところ私が一番のおすすめ動画をご紹介したいと思います。
神戸の真言宗・大本山須磨寺副住職であられる小池陽人さんの
【須磨寺小池陽人の随想録】です。YouTubeを開いて、検索なさってください。
数十本の動画があります。
なぜ浄土真宗の僧侶が真言宗を勧める?!という人(同派の坊さん)が必ずいますね。
そういう偏見があるからなかなか仏教が世に広まっていかない最たる原因でしょう。宗派に一番執着しているのは坊さんそのものです。先ずは仏教がいかなる教えなのか、を説くことが法話の第一義であるべきです。
でも浄土真宗は「法話の目的は仏徳讃嘆」です、と教えられる。それは結論であってそこに至る過程をすっ飛ばしている、と感じざるをえません。だから新しい信者を増やすことが出来ない。引いては宗派の衰退は個々の僧侶の法話の如何に拠る、と私は考えております。
先ず小池さん、顔相がイイ!お大師様のお若い時はきっとこんな雰囲気だったのではないでしょうか? 次には声が優しい!話術と感じさせない話術もすごい。
もちろんよく勉強しておられます。私も小池さんみたいな話が出来るようになりたいです。
秋の夜長、ステイホームのご時世、皆様にもおススメいたします。
浄土真宗系では故・稲城選恵(いなぎせんえ)和上のご法話。これは有難いお話です。今では放送禁止用語連発の抱腹絶倒のお寺でしか聞けないお話。面白いお話と有難いお話は正比例します。
法話の底力、あらためて認識すべきです。

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2019/12/12
報恩講に関して、あらためて「恩」について考えてみましょうか。
仏典には代表的なものとして
(1) 『心地観経』の説 (父母の恩、国王の恩、衆生の恩、三宝の恩) 。
(2) 『釈氏要覧』の説 (国王の恩、父母の恩、師友の恩、施主の恩) 。
はたまた (3) 『平家物語』の説 (天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩) 。
などがある。もろもろ調べていて注目したいのは、インドの仏教は縁起(相互依存)の思想によって人間の横の結びつきを重視したのに対し対し、中国の儒教は忠孝を説く五倫五常(精神的秩序)の思想によって人間の縦の関係に注目したが、この考え方の違いが恩の観念にも反映したという点である。
仏の恩、三宝(仏法僧)の恩は、仏教の恩として首肯できるが、そこに国王や父母への恩となってくると、儒教的な封建道徳観念(タテのつながり)が入り込むことになり、それは仏教として果たしてどうなのか?という疑問が沸いてくるのです。
かつてご葬儀でのおかみそりの儀に用いていた『清信士度人経』の「流転三界中」の文には
流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者(三界の中に流転して 恩愛断つことあたわずとも、恩を棄て無為に入るならば、真実に恩に報いる者なり)、とあるのはこれ如何?!
これまでとは真逆の「親の恩や肉親への情などは捨てよ。それが仏道であり真に恩に報いることになるのだ」といっているのです。親鸞聖人も「父母の孝養の為に念仏申したることいまださふらわず」とも・・・。
さぁ、エライことです!
個人的には執着やしがらみにつながるような恩はどこかで断ち切った方が良いと考えるようになりました。インド的な横へのつながりを重視する未来志向の恩ならば、意義のあることだと思います。
翻って報恩講法要は、親鸞聖人の御出世の御恩を説きますが、全体的には阿弥陀如来への恩徳を謝すべしとされ、法話のたとえ話では具体的な親への報徳を説いたりと、恩の主題がイマイチはっきりしないと思います。聴聞していましても、仏法を聞いているというよりも、むしろ儒教的な孝行話を聞いているかのような印象があります。話のすり替えが横行しているといえば失礼でしょうか?
新たな参詣者へ参拝を促すのですが、報恩講の説明が難しいことを痛感します。「あなた様も御恩に報いてください」、などとは言えません。
伝統的な農村社会では何の疑問もなく報恩講が勤まっていくのですが、都市部寺院における伝統的行事の進め方について、大きな岐路に立たされています。もう精神的にしんどいのだ。

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2019/11/24
実を言うと以前より【報恩講】について、いくつかの疑問点がある。
なぜ【親鸞忌・開山忌】などと言わないのだろうか?
「報恩講」の初見は本願寺第3代・覚如上人が曾祖父である親鸞聖人の33回忌をきっかけに著された『報恩講私記』という書物にある。
覚如上人はしたたかな御方で、今でいう敏腕プロデューサーというか、オーガナイザーと称すべきか、親鸞聖人を神格化し、門弟の尊崇の念を一気に御真影・本願寺へと収斂させる意図があった。
大谷廟堂を寺院化し、比叡山からの独立を果たしたことや、十字名号をご本尊とする、としたことは大きな功績でしょう。
しかしなぜだかこのことは宗門の歴史的にはあまり重要視されない。本願寺ならばお彼岸やお盆なんぞ、一般寺院に任せておいて盛大に【覚如忌】を勤め、本願寺の意義を再認識させるべきではないか、と強く思うのですが・・・。
『報恩講私記』は覚如上人が若くして書かれ、その教養が全面的に発揮された格調高い文章で綴られているのだが、その内容はいささか感情的で、将軍様を美化する某国のプロパガンダ新聞の文体に似ているといえば怒られるだろうか?・・・もし、親鸞聖人ご自身がこの文体を見れば相当ご立腹なさるだろうな、と。・・・私は主観に陥りがちな宗教にこそ客観的な視座が必要と考える者である。
『報恩講私記』はそれとして、不思議なのは後々【親鸞忌・開山忌・御忌】と言わないで法要自体をなぜ【報恩講】と称したのだろうか? 報恩という言葉はちょっとややこしい言葉なのである。
ちなみに浄土宗では毎年1月に【御忌会(ぎょきえ)】が勤まる。私はこの言い方が好きだ。
・・・今回はなかなか刺激が強い内容であったでしょうから、皆様も頭を冷やして続きはまた。・・・こんなこと「本願寺派布教使」の資格を持っていたら言えない、言えない!フリーでよかった。

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