ようこそ真光寺ブログへ。
初めてデザインを変更しました。
目指せ1000記事投稿!(2019・10月6日現在872本)
なむあみだぶつ
2021/1/27
緊急事態宣言中とはいえ、日常はいたって穏やか・・・。穏やか、と言ったら言ったで不謹慎とか言われたりしますね。
さぞ飲食店は厳しいことでしょうが、でも8時閉店とか補助金とかいうよりも、単純に入店制限すればいいだけの話じゃないか、と思ったり。困っているのは飲食店だけでもないですしね。
・・・さて日本のコロナ報道と海外とでは趣が違うそうです。
日本では日々の感染者数や重症者数、ベッド数が主眼となっていますが、海外ではワクチンの流通の話が主になってきているようです。国民性が悲観的か、楽観的かという違いかもしれません。「リスクを危険性」、と理解しているようなレベルでは、そもそもあきれてものが言えませんがね。
前から言っておりますように私はワクチン接種を後押しする者です。
しかしお参り先でそれと無しに聞いてみると9割の方が「打ちたくない、様子を見たい」と言われます。不安は理解できますがね・・・。どうしようもないですよ。
私はふと表題の「ノブレス・オブリージュ」という言葉を想起しました。
「ノブレス・オブリージュ(Noblesse oblige)」は、フランス語の「貴族(Noblesse)」と「義務を負わせる(Obliger)」から誕生した言葉。騎士道にも通じ、戦争勃発の際、真っ先に最前線に向かうのは貴族であったことに由来しています。古代ローマでは貴族が道路や建物の寄進をしたことにも端を発します。
財産や権力など社会的地位を有する者は、それ相応の社会的または道義的義務を負わなければならない、という意味です。多くの富を持つ者から貧困層への富の分配、貴族や富裕層による社会貢献活動が、果たすべき義務ということです。
現代では経営者のマネージメント理念の一つとしても取り上げられ、社会的模範としてふるまうことが、地位のある人に求められる人物像と捉えられています。
さぁ、まずは【上級国民】と揶揄されたる政治家の先生、率先してワクチンを接種していただこうではありませんか?影響力のある芸能人・企業家も垂範して接種したらどれだけ国民の行動に寄与できることでしょう。・・・ホリエモンとか、偉そうなことばかりほざいて、今頃何してるんだろう?
ひいては宗教家の皆さん、我々が上級かノーブルかは別として、やはり社会からある種の期待を寄せられている存在です。「いのちを大切に」などの口だけのスローガンやポスター掲示はもういいですから、とりあえず接種しましょう。万が一の副反応で今さら我のいのちが惜しいですか?
お釈迦様がおっしゃたように、人には【生まれながらの貴賤はありません】。しかし【行動により貴賤はある】のです。
この国には「地位は高いが気品が無い人、資産はあるが財施を渋る人」があまりにも多すぎます。だいたい、顔つき・立ち居振る舞いからして品のある人が減りましたね。
ノブレスは平常時には学問や文化創造に蓄財など不要不急のことをしていればいい。しかし今は国家の非常時、身を挺して社会に向けた行動を起こすべき時節が到来しています。

0
2021/1/14
再び緊急事態宣言が発出され、引き続き厳しい情勢となってきました。
・・・が、しかし昨春の同宣言の緊迫感は正直、感じられません。

とりあえず、宣言期間中の月参りのお方に、上のようなご通知を順次出しております。
専門的なことはよう分かりませんが、思うことをポツポツ、と。
@ ワクチン接種は高齢者・持病有りの方を最後にして、若い連中から接種を進めた方がいい。年寄りを実験台にするな!
A 飲食店の午後8時閉店はかえって8時までの集客が重なり密になる。入店人数を3分の一程度に制限・徹底した方がよいのでは?
B @Aに関連して、ワクチン接種証明書を発行し、接種したものは優先的・制限なしに店への出入りを許可させる。
C 各宗本山においてマスコミを入れて、何らかの「コロナ平癒法要」を勤めてほしい。
・・・人々の不安解消は今も昔も神仏への祈願だ。本願寺でも「祈願」と言わずとも表現変えて法要を勤めれば、世間の評価が一層高まるに違いない!今がチャンスだ!!!!
年ばっかり食ってるエライさん方よ、ボーッとしてんじゃね〜よ!
D ワクチン接種以外に感染収束の方途は無い、
断じて無い。
阿弥陀様も「接種不捨」とお誓いになられます。
・・・お後がよろしいようで。

1
2020/12/7
今年の一字、清水寺さんの貫主さんは今年は何を書かれる(そもそもは日本漢字検定協会が選ぶ)のでしょうか?

私の主観では「禍(か)」ですね。コロナ禍の禍、災いということ。
昨日聞いたニュースでとても驚いたことがありました。
来年にもいよいよワクチンが入ってくるのですが、なんと半分くらいの人が「様子を見てから打ちたい」との観測で、すぐにでも打って欲しい(私が該当)が7%しかいないという有り様。全体でも半数くらいが不安だとのことです。
難しいものですねぇ。国も様々な方策を打ってくれているのですが、ワクチンこそが最大の防御手段なのに、それを様子を見てから、というのでは混乱があと1年は続くと見ました。
早くワクチンを、と急かしながら、今度はちょっと待ちたいという。
こんな身勝手なことありますか!? そりゃ中には副作用もあるでしょうよ。
ここにいかにも日本人的なというか、「リスクの考え方」が如実に表れました。
「リスク」という言葉は巷でよく聞かれる言葉ですが、正しい意味を理解している方は1割くらいでしょうか。
「リスク」を危険性と訳すのは誤訳なのです。正しくは「不確実性、uncertainty」なのです。
95%という確率を見て、9割以上安心だと考えるか、5%の不安を取るか、公衆衛生を考えれば、ここはリスクをプラスに計量すべきなのです。
マスクや消毒をしないのはもはや自由ではありません。同様にワクチンを打たない自由ということも議論が生まれるでしょう。
また、お参り先では80代の方々が、コロナ禍を通じてリアルに生き死ににかかわる、他人事ではない出来事として懸念されておられます。当然のことです。
一方で毎年、風邪をこじらして肺炎で亡くなる方がたくさんいるのですが、普段はそういうことには思いもよらない。また自殺者数が毎年2〜3万人いるということも普段は意識しません。
全世代を通じ、普段は生き死にのことをリアルに考えてらっしゃらないのですね。
ここにこそ、宗教性が軽視されている遠因があるように思います。はっきりいえば私たちが死なないのであれば、信心・念仏の教えは全く必要がありません。人とうまく付き合うのにどうすればよいのか、なんて阿弥陀如来に聞いてみても全くのお門違いです(でも若い僧侶はこんなどうでもいい質問にもご丁寧に答えてくれるみたいですね!)。
と言いますのも、蓮如上人は『御文章』の4帖目第9通「疫癘(えきれい)の章」に、
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。
訳・・・このごろ疫病が流行り、多くの人々が亡くなっておられます。しかし、人は疫病が原因で死んでしまうのではないのです。死ぬということは、生まれたときから定められていることで、そんなに大層に考えなさんな、と。
疫病による死は「縁」であって「因」ではない。因は生れてきたことそのものだというのです。実に明快な解釈です。人はコロナやガンに罹患したから死ぬのではないんですよね。
【生は偶然、死は必然】とも言います。
「生まれ難くして生まれてきて、必ず死ぬるを知る」のが仏教の大前提です。これを理解いただかないと、宗派を問わずに仏法が机上の空論になります。
誤解いただきたくないのですが、仏教は厭世(えんせい;逃避)主義ではありません。
御文章には続けて「そのような私たちに対しはたらきかけをしていただいているのが、阿弥陀様であるということ、我利私欲の生活から逃れられず、自己中心的な考え方に陥りやすいこの私。思い通りにはならないため、不満や不安を抱えたまま生きていくしかないこの私を、そのままの姿で救う、と。
いかなる罪悪深重の者でも、いつでも、どこでも、だれでも救われる法が阿弥陀仏の本願です。生死の一大事を阿弥陀様におまかせし、お念仏の生活をすることで安心を取り戻し、感謝して日暮しをしてはどうかと言われているのです。
このことがどうも世間に伝わっていないようです。
実に前向きな教えではありませんか?
人間の苦悩は人間では解決できないわけで、それを解決するのが宗教なのです。心の師匠である奈良の大峯 顕先生は常々仰っておられました。

6
1 2 3 4 5 | 《前のページ |
次のページ》