2007/7/6  23:38

連載「下野 歴史の謎に迫る」のお詫びと訂正  連載「下野 歴史の謎に迫る」

 毎月、東京新聞栃木版に掲載させて頂いております同連載ですが、第31回「道鏡禅師(下)」(7/5朝刊)では大失態をしてしまいました。私の責任で訂正前の原稿が出てしまったのです。ここに、深くお詫び申し上げますと共に、以下に訂正後の原稿を掲載させて頂きます。大変、申し訳御座いませんでした。

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孝謙天皇の時代、熊野大権現から分霊されて建立された「神倉神社」=藤岡町で

「道鏡禅師(下)〜下向の道々に禅師の面影〜」

 七七〇年八月四日、孝謙天皇が崩御されると、間もなく道鏡禅師は左遷される。

 歴史書「続日本紀」には、「下野国の薬師寺別当に任じて、駅家を順送りして下向させた」とある。当時の主要幹線道路を通ったと記されるが、詳細はないのだ。

 当時、都から下野までの一般的なルートは東山道であった。東山道は、滋賀、岐阜、長野、群馬を通り、栃木に入る。当時の東山道上ではないが、群馬県片品村から日光市に入る県境の金精峠には、道鏡に関する伝承が残る。流罪の途中、険しい山道で疲労困憊した禅師は、峠一面に生える草を食べ、精気を取り戻した。この薬草が行者ニンニクで、この故事から峠は、金精峠と呼ばれるようになった。
 
 東山道上の下野国国府の近くにあった栃木市の大神神社には、道鏡が一時滞在したとの伝承が残る。更に下った下野市の孝謙天皇神社には、孝謙天皇の「御陵」がある。禅師が供養のため女帝の分骨を埋めたと伝わるもので、戦前までは禅師を慕って来訪した二人の女官の墓も近くにあった。

 一方、陸路ではなく、禅師一行は船で太平洋を渡ってきたとの説もある。
 
 藤岡町蛭沼に住む郷土史家、大山幸樹氏は、「禅師は身の安全を守るため、弟子たちと、警護の従者十一名に守られながら、和歌山県の新宮より船でやって来た」と言う。新宮からは漁師十四人家族が新たに加わった。東京湾から利根川に入り、思川を遡って小山市島田河岸で、別説には巴波川沿いの部屋河岸で下船。大神神社で休んだ後、禅師を薬師寺に送り届け、自分たちは西へ移住したという。

 実は、大山家のすぐ近くには、孝謙天皇の時代、七六七年創建の神倉神社があり、境内の石碑には、「熊野大権現より遷座す」と記されている。大山氏の主張は、神倉神社や地域の諸伝承を総合的にまとめたものだ。

 西方町の歴史を記した古文書「西方記」には、別の従者の故事が記されている。西方郷を代々治めてきた近氏は、流刑の禅師に従って来た公家の子孫であるというのだ。一族の滅亡後は、近津神社が建立された。

 那須塩原市の大野家に残る家系図には、道鏡との関係が記されている。大野家の先祖は藤原房麿と称する人物で、道鏡流刑の際、連座して天皇より勘当を受けた。都落ちして下野薬師寺の道鏡を訪ね、更に東北地方に向かおうとしたが、那須郡で那珂川の洪水に行く手を阻まれ、やむなくそこに住み着いて、那須野ヶ原の開墾を始めたというのである。同地の開拓第一号ともいうべき人物だ。この大野家は、現存する三島神社を建立し代々宮司家を務めている。

 県内には、禅師が文化をもたらしたとする伝承も多い。

 小山市周辺では、郷土料理「しもつかれ」は、医術に造詣が深い禅師がもたらした栄養食であるというし、同市内の諏訪家には、道鏡から伝えられたという「しぼり紙」の工法が一子相伝の形で伝わる。

 道鏡の遺徳を記念した神社仏閣もある。

 宇都宮市石那田町の高龗神社には、道鏡が日光参拝の途次、大旱で困っていた村人の依頼に応え、雨乞いをしたところ、二日間に亘り大雨が降った。感謝した人々は道鏡を神として神社に合祀した。当地では、道鏡伝授とも伝えられる雨乞いの祈祷が現在も続けられている。近くの愛宕延命寺は禅師の遺徳を記念して建立されたものだ。

 道鏡は、流刑後二年も立たずして死亡したことが都に報告される。

 上記石那田町に近い逆面町には、祈祷中の道鏡が衰弱死したと伝承される「道鏡の篭もり堂」があり、茨城県常陸大宮市には「主命」により道鏡を暗殺した人物の子孫と称する旧家が現存する。

 もし朝廷が刺客を放ったとしたら、それは、北隣の蝦夷地の不穏な動きと無縁ではなかろう。道鏡の残存勢力と蝦夷勢力が万が一にも結託することになったら、船出したばかりの新王朝にとっては相当な脅威だったに違いないからである。

(取材にあたって、「道鏡を守る会」の本田義幾氏には大変お世話になりました。御礼申し上げます。)

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孝謙天皇の崩御後、供養のため、道鏡が女帝の分骨を埋葬したとの由来が残る「孝謙天皇神社」=下野市で
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2006/8/20  2:10

「下野 歴史の謎に迫る」(21)  連載「下野 歴史の謎に迫る」

「男体山登拝大祭」

 栃木県の最高峰男体山は、古代から聖山として信仰の対象となってきた。

 8月1日深夜0時、男体山の麓にある二荒山神社中宮祠(海抜1,280m地点)から、千人の人々と共に2,486mの頂上を目指して登山を開始した。

 途中からほぼ直線に登って行く道は非常にきつく、登頂には平均時間の2倍の6時間を要した。登山中、肉体的に苦しくなってくると、不思議と家族や周囲の人々のことが思い浮かび、彼ら一人一人への感謝の気持ちが沸々と沸いてきた。更に、断末魔の叫び声をあげながら、一歩一歩大地を踏みしめて更に登ると、次第に二荒山神社のご神体である「山の神」との一体感を感じさせて頂く様になり、それ自体が強い推進力となって私を後押ししてくれた。

 山頂では日光修験道代表の伊矢野美峰師に取材を行い、今日登ってきたルートが、日光曼荼羅の中心たる中禅寺湖(出発点)と男体山であることを知る。
 
 山中で計14時間歩き回り、午後2時5分中宮祠帰着。途中、慈雨が降るなか、大きな岩の上で瞑想したりしながら下山。気がつくと、ズボンの尻には25cmの裂け目が出来ていた。
 
 以下は、写真による記録である。(8月4日付東京新聞栃木版掲載)

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 丁度、執筆中、当日、日光修験道を取材に来ていたドイツ人カメラマン、ラルフからメールが届いた。正直言ってラルフが押したり引いたりしてくれなければ、そして金剛杖がなければ、私の登頂は無理だった。初来日、それも2日目だったこともあり、重い機材を背負った彼こそ大変だったのに。私たちは、アラブ世界に生活してアラビア語が話せると言った共通点があり、初対面で一瞬にして意気投合したのだった。彼が送ってくれた頂上で山伏たちと太郎山神社に向かって祈る私の顔を見れば、当日の厳しさがわかって頂けるに違いない。
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(c)r.maro
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