八王子城って知ってますか?
昨日、江戸東京博物館を観ていて私も初めて知ったのだ。
「城の日」の2006年4月6日、八王子城は財団法人・日本城郭協会が選定する「日本百名城」に選ばれた。八王子市は今後、現在の八王子城址公園に城を完全復元する計画にも着手する予定らしく、来訪者用の駐車場を整備するなどしてPR活動を展開してゆくそうだ。
しかし、都内に日本の城100選に選ばれるような名城址がありながら一般的にはあまり知られていないのはどうしてなのか?八王子といえば私の家から京王線で一本で行ける。日本の聖域を探している私としては俄然興味が沸いてきた。
昼過ぎに京王八王子駅に到着。昼食にウマイものでもと思って店を探してみたのだが、あまり色気を感じさせる店が見当たらない。チェーン店が多く味が想像できてしまってイマイチ興味をそそられない。
かなり歩いて閑散としたシャッター街に出てしまい、仕方がないから「モスバーガー」とかラーメン屋で妥協しようかと思っていた矢先、「ポテじゅー」という洋食屋を発見。「完全手作りの小さな洋食屋さん」というキャッチ・フレーズがシティ・ボーイズのコントを連想させて面白そうだから入ってみた。ここのお勧め料理は「三日間煮込んだ超ビッグ・ロールキャベツ」。まるで「ナウシカ」のオウムのような形をしたその特大ロールキャベツだった。味もよろしい!というか、本当にこういう手作りの素朴な美味しさを味わえる店って意外に少ない。ソースもスープもドレッシングも全て手作りのオリジナルという徹底ぶり。「残さないで食べてよ!…でもマズかったら残していい」とウチのカミさんに声をかけるマスターも面白くていい親父だった。ただ、「エスニック・ハンバーグ」を頼んだ他の客に「辛いの大丈夫?すんごく辛くしてみてもいい?」とせがんでいるあたり、あんまり調子に乗らせると後で恐ろしい目に会うかも…。
腹ごしらえも済んでいい塩梅になった私たちはいよいよ八王子城址を探すことに…。しかし、いくら地図や案内板を見ても八王子城址などというものは載っていない。
仕方なく交番でオマワリに聞いてみることに。すると八王子城址があるのは元八王子で最寄り駅は高尾だという。しかも高尾からバスで八王子霊園入り口まで行きさらにそこから数キロ歩かなくてならないらしい。なるほど、かなり交通の便は悪いらしい。日本の城100選に選ばれてもいまいちメジャーじゃないのはそのせいかも…。
電車で「高尾駅」まで行きバスに乗る。殆どは霊園に行くお年寄りくらいしか乗っていない。バスを降りて歩くも数少ない民家の殆どは墓石屋だ。しまいにはそれすら疎らになり、本当にここは東京か?というような山に囲まれた田舎風景が続く。人影もほとんどなく唯一すれ違ったのは地元青年団の主催する盆踊り大会の開催を知らせるアナウンス車だけだった。
40分ほど田舎道を歩くと八王子城址公園の入り口に辿り着いた…といってもとても観光スポットという雰囲気ではない。事務所のシャッターは長いこと開いた形跡がないし、ご自由にお取りくださいといったパンフレットが棚に載っているだけ。あとはトイレと園内の説明版と地図しかない。
八王子城は十六世紀後半、北条氏照が築城した山城で標高466メートルの山を有効に生かした戦国時代の山城である。武蔵地域で勢力を誇っていた北条氏の最大の支城で、一五九〇(天正十八)年六月、天下統一を目指す豊臣秀吉の命を受けた前田利家と上杉景勝らの軍に一日で攻め落とされ、小田原開城のきっかけとなり豊臣秀吉の天下統一への大きな足がかりとなった、と説明書きにはある。
まずは御主殿址へと向かう。これより先は完全なる山道。山道沿いには小川が見られ滝まである。近くで見ようと一段低い足場へ降りようとした時、カミさんがどうしても嫌だと言って近寄らなかった。思えばこの時、カミさんには不思議な霊感が働いていたのだ。
山道は完全に「もののけ姫」の世界。しかも今日は小雨がぱらつくような天候だったので余計山の神秘感が際立っているような感じがする。最近、こういう場所ではピーカンよりもこのくらい天気が悪い方が聖域っぽくて良いような気がしてきた。山の上の方はうっすらと霧噴いている。
しばらく進むと御主殿へと続く通称「曳き橋」が現れ、その先に復元された主殿郭虎口石垣群が現れた。
石垣にはヤモリが多く生息しているらしく私たちの姿を見ては慌てて垣の隙間に逃げ込んで行った。階段を登りきって御主殿址へ。当然そこには城の姿はない。石垣に囲まれただだっ広い原っぱがあるだけだ。しかし異様に空気が重い。何ナンダ、この重圧感は…!
実はこれは後で調べて解ったのだが、この八王子城には凄まじい過去があったのだ。
もともとこの地は二十日市場を中心とした経済的にも栄えていた場所であり、また宝生寺や高尾山薬王院などの伝統的な寺院、神社を多数有する聖地でもあった。さらに鎌倉街道や甲州への街道が集中する交通の要衝でもあり、まさに軍事的な重要拠点でもあったという。
全国制覇を狙う豊臣秀吉と北条氏は1588年頃から対立し、北条氏は領内で戦闘準備を始める。豊臣軍は前田利家を総大将に上杉景勝を加え上州方面から北条氏の各出城を攻め落としながら進行してきた。
利家・上杉軍は、緒戦を勝ち抜いて八王子城に迫る。そして八王子城攻撃の前に前田、上杉両氏が本陣に戦勝報告のために豊臣秀吉を訪ねたとき、秀吉は何故かあまり喜ばなかったという。「降伏を許すと共に時には城兵をことごとく殺戮することも必要だ」と側近にもらしていたといい、これを聞いた2人は、八王子城を徹底的に壊滅させる決意を新たにしたという。それまでは相手を降伏させ開城させる戦い方だったが、秀吉からそれでは見せしめにならぬと言われ八王子城は徹底的にたたくという腹積だったという(高尾山総合インフォメーション「八王子城の歴史より」)。
かくして八王子城の秀吉−北条合戦の中で唯一の大殺戮戦が繰り広げられることとなったのだ!
秀吉軍が小田原城に来襲すると北条軍の司令塔であった八王子城主北条氏照は精鋭部隊と共に小田原城に籠城し、八王子城は重臣を中心とした守備隊が残った。八王子城を守っていたのは老武将に率いられた農民、職人、山伏、僧侶や地侍達だったといわれる。侍だけでなく山伏や農民、職人も駆り出され家族と共に八王子城に籠城するが、1万5千の利家・上杉軍に対し八王子城の守兵は千足らず、山城でどんなに守りやすいとはいってもひとたまりもなかった。
八王子城はまさに地獄攻めとも言われる猛攻を受け、木村常陸介が出した「落人取締触書」によると「八王子城よりの落人が逃げた先から帰ってきたら知らせるように、またよく捜して見つけ出せ」とあり、北条方は、一人たりとも逃がさじというきびしいものだった。
また実際に戦った者たち以外にも八王子城にはその妻子たちが多くおり、この者たちは館の南にある御主殿の滝(正に先ほどまで眺めていた滝だ!)の上で次々と自刃し身を投げたという。これによりこの川の水が真っ赤にそまりそれが三日三晩続いたといわれてる。
僅か半日の八王子城攻めで城兵女子供延千数百人が惨殺され、城は落城。
小田原降伏後、氏照は切腹となり八王子城の麓に葬られたが城は廃城、秀吉はこの地を抹殺すべく城下町も破却させてしまった。
かくして八王子の町は現在の市街地へと移転し、八王子城のあった場所は「元八王子」の地名となる。
この八王子城址には正にそんな血塗られた過去があったのだ。この妙に神妙な妖気も空気の重圧感も、そしてカミさんが感じた霊感も全てはそんな歴史がかもし出す怨霊のようなものなのか?実はここは心霊スポットとしても有名で今でも城攻めの行われた6月23日の早朝になると城山川の水が赤く染まるという怪談があるとか…。
なるほど、日本の名城100に選ばれながらメジャーになれず、逆にまるで来る物を拒むかのように辺境へと押しやられているのにもそれなりのワケがあったのだ。触らぬ神には祟りなしということなのか?
さらにその先の険しい山を(殆ど獣道に近くサンダルで登れるような簡単な山じゃなかった)40分ほど登ると本丸址に出て、そこには八王子神社と呼ばれる小さな神社があった。
かつての神道の祭神は多くの場合、祟り神であった。時の権力者が滅ぼした他家の先祖を「どうぞ、祟らないで下さい」と言って手厚く祭るというのが日本人の宗教感覚にあったのだ。だから、この神社も八王子城で惨殺され怨みを呑んで死んでいった人々を祭ってあるのかと思いきや、後で調べたところそういうわけでもないらしい。
しかし、この本丸跡の八王子神社こそ前人未到の妖気が漂っている場所には違いなかった。かなり恐かったぞ!丁重に参拝しこの地を騒がせた無礼を詫びた。
今日の旅は聖域というにはちょっと不謹慎かもしれないが、非常に畏怖すべき深遠な場所を発見した。
帰りに高尾駅の日本料理屋で土用の丑の鰻を食べた。ここもまた料理も美味かったが大将がまた強烈なキャラで面白かった。私たちの席へはニコニコとやってきて料理の説明などをしてくれたが、奥座敷の教諭たちの会合と思われる席に向かっては「昔は勉強したい奴だけが塾で行った。今じゃ塾行く金のない奴が負け組だの下流層だのと言われるこんな社会を作ったのは誰だよ!」と檄を飛ばす豪傑だった。
昨日今日と訪れる店、全て当たっている!

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