勉強は楽しいが、知識が増えること=創る作品が豊かになる、という単純な構図はまかり通らないのが芝居の世界。芝居は受験勉強ではないのだ。
世の中のことを知ってより豊かなボキャブラリーで意見を語ること、これは左脳の働きである。しかし、左脳的発想のみで作品を創ると解り易いが、あまり面白くはならない。論理がはっきりしている分、破綻が無く、意外性が無く、ドキドキしない。面白みは小手先のものに偏りがちになってしまう。この間の「English」を私の師匠吉村八月さんが観に来て「芝居が理屈っぽくなりかけてるから気をつけるように!」と警告されたが、その指摘は真摯に受け止めたいと思う。
論理よりも感覚的なもの、視覚的なもの、突発的なものを思いつくこと、これは右脳の働きである。劇団火扉の初期の作品はほとんどこの右脳のみで創られたと言っても過言ではない。右脳で創られたものははっきり言って何が言いたいのかよく解らないものが多い。しかし、そのイメージの羅列が「え!何でそうなるの?」とか「どこからこんな画が出てきたの?」「何でこういう発想が浮かんだの?」という意外性があり、意外と楽しめるものだ。ただ、この場合は観る人の好き嫌いも関係するし、創る側のセンスや才能も問われるからリスキーといえばリスキーである。
私はこのリスキーな立場から、少しでも解りやすい観易い作品をと試行錯誤を繰り返し、勉強してきた。しかし、あまり勉強し過ぎて左脳に偏り過ぎてしまうとオリジナリティのない、どこにでもある破綻のない芝居になってしまってもったいない。
右脳と左脳、両方の世界を行ったり来たりバランスを取りながら生きていかないと芝居は生まれてこない。しかし、この反復横飛びもおいそれと簡単にはいかない。さらに役者活動もするとなると、脳と身体の反復横飛びもしなくてはならない。ちょっとでもどこかで停滞すると、どこかがすぐ錆びてくる。
シンドイけれど、やはりこの世界で私が渡り合って行くためにはそれらをフル稼働して戦って行かなければならない。
…取りあえず今は本を読んでいる。

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