日本映画が好調だというが、個人的には生煮えな印象が否めない。
そこで試しにハリウッドへ渡った日本映画を観てみることにした。去年欧州に滞在した時はちょうど現地でこの映画が公開されていて、欧州人の日本に対する関心がピークに達していた時期だったために、何かと重宝であった。
そこまで欧州人をメロメロにしてしまったこの映画の中の日本とはどんな物だったのか?
この映画の舞台となっているのは、日本に似ているようで似ていないまったく異なる文化圏の国であった。
1930〜50年代の京都が舞台であるようだったが、雰囲気はSF映画「ブレードランナー」で描かれた2019年のロサンゼルスに近い。
「ふたつで充分ですよ!解ってくださいよ!」という(恐らく外国映画に出てくる日本語としては初の)名台詞がある。「ブレードランナー」でハリソン・フォードが蕎麦屋に入ってザルを三つ注文すると、何故か店の主人が涙ながらに日本語でこう訴えてくるのだ。この「SAYURI」でも何故か英語と日本語がごちゃ混ぜになって飛び交っていて、正にあの混沌とした近未来の蕎麦屋を思い出してしまった。
一度そう思うと芸者というものもサイボーグか何かのように見えて仕方なかった。チャン・ツィーとルドガー・ハウアーが重なって見えた…目青いし。しかし、ストーリーの方は今時ないくらい古典的なメロドラマ。映像のセンスこそ違うが50年前の「王様と私」のユル・ブリンナーとデボラ・カーのような、かつてのハリウッド黄金期のような匂いがした。それが悪いというわけではないのだが、「ブレードランナー」的SF世界で展開されると何とも妙である。
そう、かつての夢見るハリウッド映画のようなメルヘンの世界なのである。そう、お伽噺とかファンタジーとかを楽しむように観る映画なのだ。桃井かおりも魔法使いのお婆さん役だったし。決して個人的には好きというわけではないのだが、そういうものをこのスケールで造ることは、残念ながら今の日本映画にはできないんじゃないか?
主人公は「水の性がある」というのがひとつのキーワードになっているのだが、チャン・ツィー演じるSAYURIはひとつの想いにしっかりと根を下ろしていて、それは当たらない感じがした。むしろ私が「水の性」を感じたのは工藤夕貴の役の方である。工藤夕貴はこの映画の中で唯一リアリティを感じる人物であった。一歩間違えるとあざとくなってしまいがちな役なのだが、役創りが巧いなぁと思った。恐らくあの時代の大多数の日本人はああだったはずなのだ。戦後の混乱の中で底辺の生活を強いられてもずっと渡辺謙を想い続けているSAYURIより、米兵に擦り寄ってヘラヘラしている工藤夕貴の方がよっぽど「水の性」じゃないか。
それにしても神社に参拝してゴ〜ンと鐘を打つ場面は単純に笑わせてもらった。それなりに楽しめる映画ではあった。しかし、これが流行ってこんな「ブレードランナー」みたいな日本が次々と映画に登場し、認知されていったら困る!文字通りこんな映画は「二本で充分ですよ!」
ちなみに和服姿のミッシェル・ヨーはどうしても熟女系のAV女優に見えて仕方がなかった。

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