稽古が佳境に入ると新聞、テレビなどの情報に接する機会がぐっと少なくなる。
今、世間でどんなことが起こっているのかほとんど分からなくなる。
「残月」の稽古中もやはりそうだった。
しかし、その稽古も終わり時間的余裕が生まれたわけだが、敢えてしばらくこの情報から遮断された状態を続けてみることにした。
私が新聞に毎日目通す習慣がついたのは28歳の頃だった。
バイト先の主任が休み時間に読み終わった新聞をくれるようになったのである。
二十代前半の頃はまったくと言っていいほど新聞など読まなかった。もっと言えば十代後半からテレビもほとんど見なかった。映画や音楽や本はしこたま鑑賞したが。早い話が、俗世間の情報というものに縛られたくなかったからである。本当はその垣根もかなり曖昧なものなのだが、当時は社会風潮というものに対しての反発が強かった。
私は自分の価値観の中に篭もって純粋培養的に創作活動を行うことを良しとしていた。
実際、その当時(90年代後半)は世の中の動きが気分の生き方を規定するような風潮も薄かったのだと思う。
それを変えたのは、2001年の米国同時多発テロ。
たまたまその頃、パレスチナ問題に興味を持って関係する本を読んでいたのでビンラディンやアルカイダに関する予備知識はあった。そして米国の世界戦略についても。日本人が実感している以上に、アメリカが世界で如何にここまで嫌われているのかに関心があったのだ。
ともかくあの事件は、世の中の出来事が否応なく自分達の人生を変えてしまうということをリアルに思い知らされた。その頃から、少しづつではあるが新聞に目を通すようになった。
私がバイト先の休み時間に新聞を読む習慣のついた2003年春、アメリカはイラクに軍事侵攻した。アルカイダを匿っていたアフガニスタンは分かるけれど、何でそれがイラクに飛び火するのか?そもそも湾岸戦争で決着はついていたのではなかったのか?理解するには当時の私には、あまりに世界情勢の基礎知識がなかった。
まずは、その純粋な疑問を解き明かすために新聞の国際面を隈なく読むようになった。
知れば知るほど米国のイラク侵攻の根拠はかなり胡散臭い。そして、その大儀の怪しい米国の戦略に小泉首相はなぜ追従するのか?そして、政治欄を読むようになった。驚くべきことに当時の私は、自民党と共産党の区別もよく解っていなかった。
とにかく、劇作家を志すものとしてこんなことではいけない。世の中の基礎知識くらいは身につけなくてはと、遅蒔きながらも新聞を通して社会勉強を始めた。
選挙にも行くようになった。それまでは友達に頼まれるままに、公明党に入れたり共産党に入れたりしていた。そんなことじゃダメだ、ちゃんと自分で判断して選ばなくてはと日本の政党の基礎知識も新聞を通して一から勉強した。
政治の仕組みが解ってくると、現在の日本の場合、政治を動かす原動力が理念や道理よりも経済の占めるウェイトがやや高いことが解って来る。現在世界的に正しいとされている「自由と民主主義」という価値観は、青年の頃思い描いていたようなロマンチックなものではなく、実質的な「商売用語」であるという側面も見えてくる。
特に当時の小泉時代はネオリベ全盛期で、ホリエモンなどが登場し幅を利かせていた。金融立国を目指し、構造改革と称する規制緩和が持てはやされ、雇用の流動化という名の下非正規社員が急増し、社会格差が顕著化し始めた。しかし、当時は「世界の格差に比べれば日本はそれほどでもない、それでも落ちこぼれるのは自己責任だ」という論が多数はだった。
「経済重視派の人々は論理が乱暴だ」というのが、私の印象だった。人を納得させるという姿勢が薄く、二言目には「国際競争で勝つためには仕方ない!」と異論を切り捨てるような傾向が強かった。
それほどまでに政治家が恐れ、経済人が畏れる世界市場というものはどんなものなのか?私は経済面を隈なく読むようになった。資本の仕組み、金融の仕組み、市場の仕組みをゼロから勉強してみた。株式と債券の違いさえ初めは解らなかった。世界中の人間の「一円でも多く儲けたい!」という欲望の塊が、巨大な市場を動かし、我々が住んでいるこの世界全体を動かしているのが見えるようになった。マクロでは至極単純で、ミクロでは恐ろしく複雑な世界市場、そんな「神の手」が存在するなんてまったく知らなかった。そして、当然のことながら彼らが崇めるその「神の手」は、人間にとって都合のいいように制御できるものではなかった。そして去年、世界的金融危機は起こった。
結婚して実家に戻ってからは「読売」と「朝日」の二紙に目を通すようになった。両親が「読売」、じいさんが「朝日」を取っていたからだ(ちなみに職場の主任がとっていたのは朝日だった。時々自分で日経新聞や日経ヴェリタスを買って読んだ。
数紙を読むコツも身につけた。何も一から全部読むわけではなく、一面記事の扱いと社説を比較すればいいのだ。熟読するのはどちらかでいい。特に社説は各社の違いがはっきり現れるし、その価値観が記事の扱いにも如実に現れるのである。大雑把に言えば「朝日」は労祖寄り、「読売」は財界寄りなのである。それでも最近では世界的価値観の大転換期を向え、各誌とも少なからず揺らいでいるのが実情のようだが。
こうして、新聞を読み始めて6年。自分の半径5メートルの価値観から踏み出すことなく、もっぱらイマジネーションの世界に自閉していた私も、少しは世の中の仕組みが解るようになってきた。単純な好奇心から始まって、芋ズル式に社会の知識(というほどの次元でもなく単に常識というべきかもしれない)を仕入れていったことは自分にとってやはり必然だったのだろう。もし、バイト先の主任が新聞を読まない人だったら…と、考えると恐ろしくなるくらいだ。
まだまだ、新聞に学ぶことは沢山あるだろう。世の中のことについて知らなければならないことも山のようにあるのだろう。
しかし、私は暫く新聞を読まないことに決めた。

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