まず、勝戦国の人間が敗戦国の戦争映画を創るということは凄く勇気のいることだと思う。私の敬愛するサム・ペキンパー監督が「戦争のはらわた」で最初にそれをやってのけた。しかも、ヒューマニズムが主題ではなく戦う男のドラマとして描いた稀有の名作である。
それに比べるとこの「硫黄島からの手紙」はヒューマニズムのドラマであるからそれ程のインパクトはないのだが、ヒステリックな反戦メッセージに傾かないよう日本人の戦争を公正な視点で描こうとしている貴重な作品ではあると思う。
「アメリカ人が描いた日本人の戦争」という意味では良い面も悪い面もハッキリ出たが、個人的にイーストウッドは好きな監督なので良い面を素直に評価したい。少なくとも戦後60年企画とかのテレビの戦争ドラマよりはよっぽど良い。
世間が言うほど二宮の芝居が素晴らしいとも思えないが、アメリカ人と日本人の感覚のちょうど中間を表現する上に置いてはこの上ないキャラクターだとは思った。逆に言えば私は渡辺謙とか伊原剛志とかのキャラクターの在り方がよく解らなかった。立派に描かれすぎているのだろうか?それほどのリアリティは感じられなかった。
私が一番リアリティを感じた役は「おめでとうございます!」と言って赤紙を持ってくる婦人会のおばちゃんである。あのおばちゃんは妙にインパクトがあった。多くを語らなかったがあのおばちゃんの背後にある戦争の影が凄く感じられた。ああいう人は逆に今の日本の戦争ドラマには出てこない気がする。
戦況の悪化と共に指揮系統が巧く機能しなくなってバラバラになり孤立して自滅して行く…ということがこの映画では巧く描かれている気がする。これが今の日本人が描くと「戦争自体が悪い」という次元で片付けられてしまうので、本質が見えてこない。共同体意識が強く、団体行動が得意な日本人は指揮系統が崩れると脆い。これは戦争に限らず、現代の日本の企業や政治や社会全般にも通じる性質である。そういう視点で日本の敗戦を描く映画は必要であると思う。
画面は何故か戦況が悪化するにしたがって色彩を失ってゆき、最後は殆どモノクロームになる。もともと無駄な色をそぎ落とすような画面造りをしていた監督だったが、ここまで来たのか。私は好きだ。
ただ、日本兵が手榴弾を抱えて次々と自決して行くシーンだが、砕け散る肉体を特殊効果で見せる必要はあったのだろうか?「プライベート・ライアン」の時も思ったのだが、手榴弾の威力というものが逆にあまり感じられなくなって痛々しさがない。「北斗の拳」のように肉体だけが飛び散って、後ろの壁とかは殆ど傷ついていない。そっちの痕跡をもっと生々しく造る方が痛みが伝わるのではないか?大体洞窟の中であれだけ立て続けに手榴弾が爆発したら、見ている二宮だって無償でいるのは難しいはず。石とか破片とか沢山飛んで来るはずだ。それらを無視して単に砕けた肉体だけ見せるのはドラマとしても逆効果だし、下手をしたら石井輝夫監督の「恐怖奇形人間」のラストのようになってしまう危険もあるのではないか?
と気になる所は多いが、「父親達の星条旗」と同時進行で敵側の視点で本作を描いた監督イーストウッドの心意気と勇気には純粋に敬意を表したい。

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