白崎海岸の石ころ(3)
『白崎は幸く在り待て大船に 真楫(まかじ)繁(しじ)貫きまたかへり見む』(詠み人知らず)
万葉の時代にこの歌を含めて4首詠まれています。陸路が険しいため、海上交通が重要な位置をしめていたのでしょう。そして、白崎の白い岬が大切な目印となり灯台の役割を果たしてきたにちがいありません。
石灰岩が採掘される前の岬はどんな様子だったのだろう。おそらくもっと小高いふっくらした形の岬だったろう。昔の写真はあるのだろうか。そして、白崎の石灰岩はいつ頃から採掘されたのだろうか、そんなことが知りたくて、由良町役場に問い合わせたところ、由良町誌を見てくださいとのことでした。さっそく県立図書館に行ってみました。町誌は、上、下巻と資料編の三冊に分かれていてとても分厚いもので、和歌山県では一番りっぱなものではないでしょうか。
町誌によると、由良町の地質図の説明を見るとあちこちに石灰岩の鉱床が見られます。
それらの採掘は、どうやら明治初期から採掘され、石灰の焼成、肥料などに利用されていたようです。
しかし、いずれにしても規模が小さいものです。戸津井の鍾乳洞のある石灰岩の鉱床 なども思いのほか狭い範囲のものなので驚きました。
↑ 展望台から見たカルスト地形
白崎鉱床も東西約700メートル、南北200メートルの岩体です。山口県の秋吉台の規模(径15キロメートル)とは比べ物にならないほどです。したがって、化成肥料の進出と埋蔵量不足のよる不採算性は大企業との競争に対抗できず昭和26年ごろからは次々と閉鎖する工場が相次いだそうです。
白崎鉱床は明治28年ごろから採掘がはじまり、明治41年東亜セメント、昭和10年浅野セメント(昭和22年日本セメントと改称)が直営として採掘が進められ、昭 和47年に約80年の歴史を閉じたそうです。
たしかに、白崎海洋公園として整備されるまでは、セメント工場跡が残っていて立ち入り禁止になっていた頃の面影が心の中に残っています。

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