三波川変成帯(1)
五、六千年前は、海面が5,6メートルも高かったといわれていますから、和歌山城の山(虎伏山)や岡公園は小さな島としてちょこんと海のなかに浮かび、遠くに秋葉山や和歌浦、雑賀崎の山々が島としてどっかりと浮かんでいたのです。そして、長い年月にわたり紀ノ川が上流の大地をけずり、土砂を運び、海底に積もらせていったのです。また、潮の流れによって、砂や小石などが小さな島にそって筋状に寄せ集められ、やがて、海面も下がり始めて砂州が顔を見せはじめ、岡山の砂丘が生まれました。さらに、東長町から高松へ続く砂丘、そして千五百年前には現在の水軒の砂丘が生まれたというわけです。このころは、紀ノ川が砂丘で大きく南に曲がり和歌浦湾にそそいでいたともいわれています。
こうして和歌山市の平野は、紀ノ川が運んできた土砂でできているといえるのですが、さらにその下の基盤になっている岩石は、島々に見られる緑色片岩や黒色片岩などの結晶片岩なのです。前にも触れましたが、火成岩や堆積岩などの岩石が、プレートの沈み込みや地殻変動で地下深くおしこめられ、高圧や熱をうけて新しい鉱物に生まれ変わる、すなわち変成作用をうけてできた岩石が変成岩で、それが基盤として横たわっているのです。
その変成岩が帯状に分布しており、九州佐賀関半島から、あの青石でふれた四国、紀伊半島を横断して、東海地方をへて諏訪湖の南から関東山地(荒川の上流、長瀞、三波川)にいたるまで千キロメートルに及ぶといわれています。これは世界でも最も長い広域変成帯で、研究の出発点としての三波川の地名が付けられて「三波川変成帯」とよばれています。
岡公園の南西の隅にある池は緑色片岩が堀り出された跡ではないかといわれている
岡公園の入り口付近のよじ登れるように鎖のかかった岩山は黒色片岩ではないだろうか

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