2009/5/26  13:11

現代文学-小熊秀雄追悼号  文学

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1975年11月、私は大学4年だった。新聞を定期購読するほどの金はないため、時々、駅のスタンドで夕刊を買った。夕刊は、政治、経済などの情報より、学生だった私に必要な東京周辺の絵の展覧会や文学情報が多いのが分かっていたからである。

その日は、何故か毎日新聞を選んだ。特に理由はない。朝日か読売が多かったが時には気まぐれで毎日新聞を買うことがあった。

既に、朝日ジャーナルの時代は終わり、他の雑誌を買うことは少ない。

その日の毎日新聞の学芸欄に

「昭和文学私論-平野謙」

という連載があった。その日のタイトルは

「杉山英樹のこと」

と、ある。写真が一枚掲載され、「現代文学-小熊秀雄追悼号」となっている。その雑誌は知らなかったが、小熊秀雄という詩人のことは、知っていた。私の両親の住む旭川に関係深い詩人で、その地で出されている新書版の詩集を帰省の際に買い求め、非常に影響を受けつつある詩人だった。

平野謙の文章を読んだ。杉山英樹とは昭和10年代に刊行された雑誌「現代文学」を舞台に評論を書き、「バルザックの世界」「作家と独断」などの著作を刊行したが、昭和21年36歳で亡くなった評論家だという。平野謙は、この杉山の死が早すぎたことを悼みこの文章を掲載したのである。

ところで、平野謙は生前の小熊秀雄に面識があった。小熊秀雄が亡くなった昭和15年11月20日の直後、「現代文学12月号」を「小熊秀雄追悼号」として出そうと決意し、編集にあたったのは平野謙だった。

そして、原稿を依頼した数人の中に友人杉山英樹がいた。それで、この記事に「現代文学-小熊秀雄追悼号」の写真があったのである。

この雑誌には、中野重治、金子光晴、壷井繁治、湯浅芳子など名の知られた文学者が名を連ねているが、杉山英樹、大井廣介、菊岡久利、岡本潤など、私は全く知らない人々の名がある。もちろん、平野謙も追悼文を書いているらしい。

この毎日新聞記事を切り取り、旭川から発行された「小熊秀雄詩集」に挟み込んだ。その後、「現代文学-小熊秀雄追悼号」を手に取ることも、中身の文章を読む機会も訪れなかった。

記事を読んだ5年後の1980年11月20日、創樹社から「小熊秀雄研究」という厚い立派な本が出た。友人たちの小熊への追悼文や作品、詩人論が、そして新資料が満載された本である。

当時、すでに「小熊秀雄全集」5巻が完結、私は全巻を手に入れ、小熊秀雄の全貌を捉えつつあった。この別巻だけを高価とはいえ、手に入れないという筈はなかった。

信じられないことがあった。この「小熊秀雄研究」の冒頭に「現代文学-小熊秀雄追悼号」がそのままそっくり復刻されて掲載されていたのである。全部で69ページである。この本「小熊秀雄研究」全体が540ページという大部だから「現代文学」はかなり薄い雑誌だったことがわかる。

1975年の学生の頃に、毎日新聞で知った「現代文学-小熊秀雄追悼号」の内容を私はこうして5年がかりで初めて読んだ。特に、「現代文学」でかかわりの深かった友人である菊岡久利、岡本潤、平野謙、大井廣介の友情に溢れた追悼に私は驚いた。杉山英樹の追悼文に至っては、最後の11月3日の出会い、そして、大井廣介と訪れた11月20日の小熊秀雄の亡くなった日のアパートでの妻と、息子の様子とともに横たわった小熊を次のように書いている。

「死体はまだ目を開いたままになっていて、いかにも安らかな微笑に似たものを口の周りに漂わせていた。目の色も青かったように思ふ」(詩人の死)

実際に立ち会ったものだけが書ける、最後の小熊の姿を初めて読み、私は、詩人小熊への道を、切り開かれたように思った。大井廣介も、杉山とほぼ同じ経験を同時に行い、大井から見た小熊追悼を見事に行っている。(「晩年の小熊秀雄」)この二人の文章は、対になり、お互いの小熊への追悼を深く鳴り響かせる結果となった。

2008年末から2009年にかけて、私は小熊秀雄について徹底的に調査することを決意した。古い本にお金をかけることは難しいが、集められるものは集めようと思った。とりあえず、少しづつ次のものを揃えた。

杉山英樹「作家と独断」(昭和21年発行)
大井廣介「バカのひとつ覚え」(昭和32年発行-「晩年の小熊秀雄」所収)

1975年、つまり今から34年も前の毎日新聞の平野謙の「昭和文学私論-杉山英樹のこと」という新聞連載記事が入っている

平野謙「昭和文学私論」(昭和46年)

も手に入れた。平野謙が決意し独力編集により、小熊の死からひと月余りで「現代文学-小熊秀雄追悼号」が出たわけである。しかも、新聞記事を34年間もなくさずに持ち続けたという因縁からもこの本を手に入れないわけにはいかなかった。

その後、昨年暮れに古本屋に

「現代文学-小熊秀雄追悼号」

の現物があることがわかった。69年前の薄い雑誌である。しかし、私が手に入れるには高価だった。しかも、内容は「小熊秀雄研究」ですべてを読むことができる。

半年間迷った。誰も買わないのである。本ならともかく、高価な単なる雑誌を手にれるなどということは、よほどマニアックでなければ行うことではない。

結局、私は、諦めきれずに

「現代文学-小熊秀雄追悼号」

を、2009年5月20日に手に入れた。この日は、私の誕生日だった。それだけの理由で、69年前の雑誌を手に入れたのである。因縁は、1975年の毎日新聞夕刊を買ったことから始まっていた。

最後に、この雑誌でただ一人の女性寄稿者である湯浅芳子の「小熊さん」から一節を書きぬいておこう。

「或る朝ふとあなたの訃報を新聞で見たのです。もう何と悔やんでも追いつくことではない。あなたの霊前にお辞儀をしての帰るさ私は泣けて仕方がなかった。その死にあって、もう一度逢いたかったのに、と思ふ人はさう滅多にはないものだ。
小熊さん
ああ、私はもう一度あなたに逢いたかった」




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2009/5/25  12:35

移動祝祭日  文学

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1983年3月、私はパリを訪れた。ゴッホ、リルケ、佐伯祐三、辻邦生、小川国夫・・・・・。パリやフランスに住んだ多くの画家や作家たちの過去の軌跡を追う旅だった。芸術家たちが青春を送ったパリを、一度だけでも自分の目で見て歩きたいという、青年らしい想いがパリへと向かわせた。

モンパルナス駅近くの安宿に荷物を置くと、その足で私はサン・ミシェル通りを北上し、カルチェラタンでセーヌ川左岸の町中へ入った。

そこには、パリへ来た一つの目的地である古本屋があった。

古本屋の名は、

「シェイクスピア・アンド・カンパニー」

である。1920年代に、若きヘミングウェイがパリを訪れたとき、よく通った店である。店主の名は、シルヴィア・ビーチ。アメリカ人である。

この古本屋は、フランスのパリにありながら、英語の本しか置いていない。

ヘミングウェイは、このパリ滞在中にスコット・フイッツジェラルド、ジェームズ・ジョイス、エズラ・パウンド等の友人と出会い、文学上の師であるガートルード・スタインと出会っている。

この古本屋は、ヘミングウェイがパリに滞在していた時とは場所が移動している。パリでさえ、時とともに、いろいろな物事が変化していかざるを得ないのだろう。

しかし、地図を見ながら歩いているとすぐに、現在の「シェイクスピア・アンド・カンパニー」は見つかった。

シェパードが、入口左のショーウインドーの積み重なった本の前に座っている。私が入って行っても、落ち着いた姿で、街ゆく外の人々を眺めている。

古本の匂いがする。
天上へ届く本棚にぎっしりと詰まった本は、やはりすべてが英書だった。

その中に、特別な意味を持つ如くに、平積みなっているのがヘミングウェイの

「移動祝祭日」

だった。

店主らしいのは、既に60年前のシルヴィア・ビーチではなく、40くらいの好感の持てる雰囲気の男性だった。かつての店主シルヴィア・ビーチとの関係はわからない。

本の値段は30フランだった。

それ以来、「移動祝祭日」の冒頭に書かれた次の言葉が私を捉えて離さない。

「もし、君が、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、君が残りの人生をどこで過ごそうとも、パリは君についてまわる。なぜならパリは移動祝祭日だからだ」

ヘミングウェイが、この「移動祝祭日」を書いたのは1950年、彼が51歳の時だった。
ヘミングウェイがパリに滞在したのは、断続的ではあるが1922〜1927年である。つまり、この作品の印象的な冒頭のプロローグを書くためには、20年以上の歳月が必要だった。


2009年5月、東京北区の玉井氏宅で、アメリカ人のマイケルさん、ロシア文学者の中本さん、そして私の4人が集まり、詩人の小熊秀雄のことを中心に話をしていた。

話がヘミングウェイのことになり、私が、パリの古本屋で26年前に手に入れた「移動祝祭日」という本の話をした。

マイケルさんに私が、

「英語であの本のタイトルは何といいましたか」

と、訪ねると、すぐに

「A Moveable Feast」

と答えが返ってきた。

すると、玉井さんが感慨深そうに

「小熊秀雄はまさに移動祝祭日のような詩人だから・・」

と、言った。

「移動祝祭日のような詩人」

言い得て妙である。「しゃべり捲くった」詩人は、当時の誰よりも自由であり、当時の昭和初期の戦争へ向かう暗い時代の毎日を、屈することなく祭りのように祝うことを願った。

ヘミングウェイにとってのパリは、私にとっては

「東京」

である。若き日の東京の日々は、苦渋に満ちたものではあっても、少なくとも青春を過ごしたという事実は私を永遠に去らない。

ヘミングウェイの「移動祝祭日」という本について、私は過去に誰かと話したことはない。話したくとも、ヘミングウェイを読む人にはなかなか出会えなかった。非常に残念に思っていた。

しかし、青春を遥かに過ぎ去った今、東京でこうして「移動祝祭日」について、文学を愛する3人の人々と、ごく自然に語ることができた。しかも、マイケルさんという、ヘミングウェイと同国人のアメリカ人がいる。

この会話と、この時が、ヘミングウェイのいう「移動祝祭日」でなくて何であろう。

1983年にパリの古本屋「シェイクスピア・アンド・カンパニー」で手に入れた「移動祝祭日」は、擦り切れてボロボロになった。しかし、いまだに私の手元にある。










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2009/5/23  19:13

一枚の色紙  文学

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昭和13年6月、旭川へ帰省中の詩人小熊秀雄は、友人小池栄寿を訪ねて名寄を訪ねる。小池とは、旭川に住んでいた新聞記者時代、文学を通じて友となった長い付き合いである。

小池は当時、名寄の学校に勤める教師だった。

3日間、旧交を温め、小熊と小池は名寄で楽しい時を過ごす。

最終日の夜、小池の自宅で酒を飲みながら小熊は色紙を残す。

小池の「小熊秀雄との交友日記」にはこう記されている。

「小熊が僕に残していった色紙には二人で一杯やっている絵を描き、その上に彼の詩集の中から詩を探して次のように墨汁をペンにつけて書いた」

その時の詩が「自分の路、他人の路」であり、昭和10年、この名寄訪問の3年前に出した「小熊秀雄詩集」なかの一編だった。

「この時、私の長女淳子は数え年6歳で、銚子を運んだりしたので、この色紙に描かれているが、ひどくみっともない顔になっていると言ってひそかに憤慨して妻に語ったという。
六月五日 日曜。よい天気になった。招魂祭には是非帰って来いと姉が言ったとて、朝7時55分発で小熊さん、旭川へ帰る。淳子とともに見送る。
これが小熊氏を見る最後となったのである。」

小熊はなぜ、親友の娘を可愛いく描かなかったのか。小熊の流れるような速筆では、そのような配慮はなされなかったのだろう。

この色紙はその後どこにあるのだろうと、長い間、私は疑問に思っていた。おそらく、昭和13年で4歳だったであり、2009年現在80歳近い年齢で存命であろうと思われる、小池の長女淳子さんが持っているのではないかと想像していた。

先週のことである。

2009年5月19日、旭川文学資料館がオープンした。その会場へ出かけた私は、小熊の使っていた机や、また見たことのなかった資料の中に、この

「一枚の色紙」

を、発見した。責任者の沓澤さんのお話によると、小熊研究の嚆矢、佐藤喜一氏の所蔵資料の中にこの色紙が含まれ、最近、佐藤氏の遺族の方から寄贈されたという。どのような経緯で小池氏から佐藤氏へこの色紙が手渡されたのはわからない。

それにしても、私が小池栄寿の「小熊秀雄との交友日記」を読んでから30年あまり、今になってこの色紙を見ることができるとは思ってもみなかった。

詩人小熊秀雄をめぐる探索は、こうして、まだまだ尽きることがない。

小熊が昭和13年に書き残した一編の詩「自分の路、他人の路」は、私にとっては大切な詩のひとつだった。その一節は青年だった私を強く揺さぶった。

「私は自分の通る路を
 自分の感情で舗装して進む」

詩とは、誰も書かなかったことを、誰も書かなかった発想と言葉で表現することだと教えてくれたのは、やはり、小熊秀雄だった。
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2009/5/22  8:19

東京探索行-第5回-2009.5.百年の知己  文学

十条駅に着いたのは、昼少し前だった。

十条の買い物通りは、庶民的な雰囲気の街だった。マイケルさんと私は、やや混み始めた蕎麦屋へ入った。

マイケルさんは日本食はすべて食べられる。盛り蕎麦を食べながら、楽しく話が進む。

私も本好きで本やたらと買い過ぎるのだが、事情はマイケルさんも同じらしい。家が本で埋まっているとのことである。

池袋で、立教大学近くの古本屋に寄ろうとしたのだが、そこは日曜日で休みだった。3月には寄ることが出来なかったので、入りたい気持ちもあったが、古本屋に入ればまた荷物が増える。

「休みで良かった」

とは、マイケルさんの弁である。彼は、3月には小熊関連の高価な本をその古本屋で3冊も買ってしまったそうである。

そばを食べ終わって外へ出る。5月の日差しが暑い。

少し予定より早目だが、訪ねる予定の玉井さんへ電話する。

「もちろん、結構です!!」

と、快く早めの到着を快諾してくれる。

玉井さんは、家の外に出て待っていて下さった。

家の中へ入ると、3月に会って顔見知りの奥さんもにこやかに迎えてくださる。

奥さんとマイケルさんは初対面である。

玉井さんが「百年の知己」という言葉を、手紙で使って下さったことがある。

つまり、会ってさほど時間が経っていなくとも、心が通じ合えれば百年も付き合っているような関係にすぐになれる・・・。そういう意味合いだった。

まさに、二が月ぶりの、二度目の再会なのだが、玉井さんご夫妻の優しい、人を心から受け入れる雰囲気に、私は、心が和むのを感じた。

私はいつも玉井さんが編集した「小熊秀雄全集」を繰り返し読んでいるので、玉井さんとは遠く離れていても毎日会っているようなものである。

玉井さんは貴重な「小熊秀雄全集」を出版した元創樹社の編集長兼社長だった方である。

マイケルさんも同じ詩集を持ち、毎日、それを持ち歩いているのだから同じような気持ちだろう。

マイケルさんが、その全集の一冊を取り出し、

「仕事場この本を机の上に置いているといい装丁ですねと褒められるんです」

と、玉井さんに言った。

小熊全集旧版は布張りで、色は臙脂。私も気に入っている。

玉井さんはそれを聞くと

「装丁は全部私がやりました。もちろん、背表紙の小熊自筆の字も選んだのは私です」

そういう時の、玉井さん表情は、子供を慈しむような優しい、うれしそうな表情だった。

一時間ほど話をしていると、ロシア文学者の中本さんがやってきた。京都で会合があったらしいのだが、私が上京しているのを知り、東京へ着くなり、ここへきてくれたのである。

中本さんも、大学教授という権威主義的なところを全く見せない、謙虚で真摯な雰囲気の方である。4人で、ロシアの話、小熊の話、私の昨日の新宿、四谷、麹町方面の探索結果や、中村彜と鶴田吾郎の「エロシェンコ像の話」など時間が過ぎるのを忘れるほどに楽しい話題が続く。

玉井さんの奥さんが、部屋の奥で薄いパンフレットを読んでいる。

タイトルを見ると

「カオス・シチリア物語」と書かれている。

1984年、イタリアの兄弟ふたりの監督タヴィアーニによって作られた映画である。
私は、この映画が好きだった。オムニバス映画であり、特に最後の

「母との対話」

は、忘れられない。

故郷へ戻った初老の男が、母の亡霊に次のようなことを告げられる。

「もはや見ることのできなくなった者の目でものを見なさい。つらいだろうけれど、ものごとがずっと美しく、尊いものにみえるわ」

この言葉だけではない。

モチーフとなるモーツアルトのオペラ「フィガロの結婚」第4幕のガヴァティーナの旋律は私に強烈な印象を与えられた。さらに、母の回想シーンで、漁船で旅する家族が立ち寄った白い砂の島で、幼かった母は、彼女の兄弟、姉妹とその白い砂の斜面を滑り降りる。青い海、白い砂、まだ未来しか想像できない若き少年と少女たち。

寄り添うようにして流れるモーツアルト・・。

このシーンは今まで見た映画のどのシーンより美しいと思った。

玉井さんの奥さんは、この映画を1984年に神田神保町の「岩波ホール」で見ている。私も、この映画を同じ時期に同じ場所で見ている。

私はその時以来、この映画を見た人に出会ったことはなく、この映画について人と語ったことはない。25年もの間・・・。

人はどんなに遠くに住み、出会のが遅くとも、こうして、一つの映画を通して出会うことができる。それは、映画だけではなく、すべての芸術がそのような役割を果たすものかもしれない。

ずいぶんと、玉井さん宅で御馳走になり、暗くなった午後7時ころ、中本さん、マイケルさん、私は十条の玉井さん宅を出た。

私は、遠い東京に多くの友を得たことに感謝しなければならない。これも、若くして貧困の中に死んだ詩人小熊秀雄の取り持つ縁である。

玉井、中本両氏、それに旭川の高田さんと私は、この夏に、サハリンへ共に旅をする。これは、詩人小熊秀雄が幼年時代を過ごしたサハリンを旅するのが目的であるが、私にとっては先輩である方々の様々な経験を聞くことも大きな楽しみである。

さて、マイケルさんとはこの次はどこで会うことになるのだろう。ひょっとしたら、彼が北海道を訪ねてくれるかもしれない。
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2009/5/20  16:05

大いなる決意-詩人の机  文学

詩人の机
          宮川達二

黒い色の詩人の机・・・
想像よりも何倍も大きな机
この机を手に入れた時の
80年を超える前の
詩人の熱き想いを感じた

黒い机が長く置かれ
大量の詩を書き
あなたが命を落とした
東京豊島区千早町東荘
私はその場所を繰り返し訪れた

あなたの詩人としての出発の地として
そして、若き日の友が住み
懐かしき母のような姉が住んだ旭川に
妻の手によって贈られ
今は、この地に詩人の机は置かれている

黒い色は痛々しく擦り減り
詩人の血と汗が滲みこみ
朽ち果てようとする机
しかし、今も詩を書く鉛筆と原稿用紙の接する
低く強靭な音が聞こえてくるようだ

大きな大きな机
貧しさの中でこの机を手に入れた詩人の
大いなる詩への決意
私はその決意の深さを心に刻み込み
詩人の黒い机の前を静かに去る

2009.5.20




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2009/5/18  13:23

中野の小熊追悼詩-東京探索行-第4回-2009.5.10  文学

西武池袋線椎名町駅で、アメリカ人のマイケルさんと会う。彼は、詩人小熊秀雄の詩を英語に翻訳することに情熱を持つ人である。

メールで、マイケルさんが小熊の詩を英訳したものを東京から北海道旭川に住む私のところへ送る。私が気になる部分を指摘してマイケルさんに送る・・・。そんなことをこの数か月繰り返している。

いつか、マイケルさんの新しい小熊秀雄の英訳詩集が本となることを夢見ている。

彼とは、3月初旬に東京神田のミロンガという店で初めて会っているが、その時は複数の人がおり、話をする十分な時間がなかった。そのために、今日は一日彼と一緒に過ごし、小熊を中心に文学の話をしようと思っている。

二人で、椎名町駅前の喫茶店で30分ほど話をした。私が目白駅から歩いたというと、彼も同じように目白駅から歩いたという。コースは違ったようだが、暑さの中を同じことをしていたわけだ。

マイケルさんは、創樹社から1978年に出た旧版小熊秀雄全集の一冊を持ち、小熊の詩の下にかれ自身の鉛筆の字で幾つもの書き込みがある。分からない言葉を丹念に調べて書き込んだらしい。

小熊秀雄という、決してメジャーとは思えない詩人に対して、このような作業を行うアメリカ人がいる。それを、目の前で感じただけでも、東京へ旅した意味がぐっと深まったように思った。

二人で、椎名駅の北の方角にある小熊の終焉の地千早町三十番地を目指した。地蔵堂通りは人通りも少なく、車もそれ程通らない。長崎神社では、春の祭りが行われていた。

華やいだ雰囲気があって、椎名町へ来てよかったと思った。

マイケルさんは、奥さんが日本人、小学校1年の女の子と、4歳の女の子の二人の子供がいる。日本へ来て、15年になるという。日本語は十分に分かり、私が英語を使う必要は全くない。

小熊秀雄の詩を、英訳ではなく日本語で読む人だから、日本語が十分に使いこなせるのも不思議ではない。


小熊終焉の地である千早町東荘へ、私は、1978年に初めて来ている。その当時は、東荘はまだ、戦災を逃れ小熊秀雄が亡くなったと同じ状態で残っていた。小熊の妻のつね子さんが、現実にそこに住んでいたのである。

その直後、そのアパートは取り壊された。玄関にかかる「東荘」とかかれた小さな名札を、取り壊される直前に再度訪れた私は、とりはずして持ち帰ろうかと思ったことを、今もなまなましく覚えている。

以後、ここを30年も訪れなかったが、予想通り、全く様相が全く変わり、マイケルさんも、東荘アパートが、近代的なマンションになっていることに驚いている。かろうじて、玄関の右手に階段があり、背後が崖であることだけが、ここにかつて東荘があったことを示している。

小熊秀雄の友人の一人に、詩人であり作家でもある中野重治がいた。

中野重治は、小熊と面識はあったが、小熊と非常に近い友とは言えなかったようだ。それでも、小熊の詩を常に評価し、小熊の死の年には最後の詩集「心の城」を出すことに大きな協力をした。しかし、障害が大きくそれは実らなかった。

結局、中野は小熊の生前に出すことが出来なかった「心の城」を戦後の昭和21年にタイトルを変えて「流民詩集」として発刊し、その友情を貫いた。

昭和15年(1940年)11月20日に小熊が亡くなった時の直後、中野重治は、

「古今的、新古今的」

と、題して「千早町三十番地」「そこに君は」「「君は歩いて行くらん」という三つの詩の連作を小熊秀雄の死への追悼として書いている。


小熊へ死の追悼、回想文は数多く書かれている。小熊を追悼する詩も

「白樺の俗謡」(菊岡久利)
「飛ぶ橇を祝する詩」(木村京二郎)
「遺作展」{岡本潤)
「影絵の国」(小野十三郎)
「詩人小熊」(広瀬操吉)

などがあり、それぞれに優れているのだが、何といっても、小熊の死の朝に、知らせを受けた中野が直面した臨場感あふれる追悼の詩としては、中野の詩が何といっても一番すぐれている。



千早町三十番地   中野重治

千早町三十番地東荘はどこなりや
落合にもなし
長崎にもなし
千川にもなし
そこで丸々逆戻りして線路を踏み切りて行く
そこは新道路にそえる古くさき旧道路
新道はまだ人通らず
白きブラスターに朝の陽てり
あちこちに筵のきれ敷かれたり
その掘削の泥旧道に積まれ
旧道はでこぼこと昇り下る
そこを昇り来る女あり
どこかの掃除婦ならん
鼻より白き息吐き
袖にて口許かけておおう
そこに畳屋あり
軒に七輪をおき
朝のタドンを起こすところ
青きほのお揺れるを
犬二匹足を伸ばして不思議そうに見入る
そこに屑塚のある畑あり
老母三人 片手にバケツを提げてそれを漁る
そこにアサリ屋あり
ごま塩のおやじ
濡れた小刀にて一心に剥身をつくる
そこの軒にブリキの手形さがり
この奥東荘と書いて指さす
なるほどそこにあり
崖によせかけ 一つの五味箱の如くかなしく



昭和15年の11月20日早朝、マイケルさんと私が今あるいてきた道を迷いながら、友の家を探す中野重治。その朝の、友の死を悼む感情がここに溢れている。

詩は、小熊の妻と息子が座り、小熊の入った棺がある室内を書いた二つ目の詩へと続き、最後の三作目には一人遠くへと去りゆく小熊を見送る優しい感情を描いた詩で終わる。


私は、この詩を中野重治の小熊への友情の証として、何十年もの間、とても愛してきた。

中野重治は1978年まで生き延びた人だが、転向の問題を含めて、その生涯は決して平たんなものではなかった。

中野重治の同志だった作家佐多稲子は、中野の死に直面したときの印象を

「夏の栞」

という美しいタイトルの本として残した。この本を読むと、結婚と言う形をとらない男女にもプラトニック・ラブという形での美しい感情のやり取りが存在していたことを信じることができる。

小熊も、中野も、佐多も、文学上ではプロレタリア文学の範疇に入る文学者達なのだろうが、この三人に限って読むと、分野を超えた日本文学として美しい感情を彼らの作品の中に読み取ることができる。

マイケルさんと私は、中野重治の詩や小熊の詩のことなどを話しながら、地蔵通りを右折して、次の目的地である立教大学へと向かった。
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2009/5/16  19:33

東京探索行 2009.5 第4回 下落合-佐伯祐三のアトリエにて  文学

2009年5月10日午前9時、私は目白駅で電車を降りた。

目白駅は、大正9年に鶴田吾郎がロシア人エロシェンコと出会い、その結果、下落合の中村彜のアトリエで二つの「エロシェンコ像」が生まれた契機を作った場所である。

目白通りを西側へと歩き、中村彜がアトリエを持っていた辺りに当たる落合東公園を経て、さらに住宅街を西へと歩く。

気温がぐんぐんと上がる。まるで、一気に夏がやってきたようだ。

中村彜のアトリエには、友人鶴田吾郎も、中原悌二郎もしばしば訪れている。彼らの友情を育み、短かった人生を共に歩んだ遥か昔の芸術家たちの心情を思う。

まもなく、佐伯公園と書かれた表示が出た。通りを左へ曲がり、さらに狭い道を左へ曲がると佐伯公園へ着いた。

私は、先週の日曜日、札幌の道立近代美術館で「佐伯祐三展」を見た。昨日は、中村彜の「エロシェンコ氏の像」を見に行った竹橋の東京国立近代美術館で、佐伯の

「モランの寺」

を、見た。まさか、二週間続けて佐伯の作品を見ることになるとは思っていなかった。私に無意識の心の動きが、すべてのつながりを呼んでいるかのようだった。

「モランの寺」は、1928年2月、パリから1時間ほどの美しい村モランで描いた最晩年の作品である。パリに住む日本人画家の友人4人と佐伯は、妻、子供を伴ってこの村へ出かけ、モランの寺を描く。

佐伯の作品の教会の塔に掛けられた時計は、3時20分を指す。やや傾いた塔、灰色の空、赤い屋根・・。成熟を感じさせるのではなく、間もなく訪れる夏に閉じる自らの命を、既に知っているかのような佐伯の焦燥を感じる作品。

それから80年後の下落合の小さな佐伯公園には、誰一人もいなかった。

小さな公園の片隅には白いペンキで塗られたアトリエの一部が残されている。

私は一人でベンチに腰かけて、30歳でこの世を去った佐伯の人生を想った。

このアトリエは、1920年末に実家である大阪の光徳寺の援助を受けて新築したものだという。佐伯の死後は、娘もパリで失った妻の米子が1972年まで住み、その後、新宿区に保存され公園となった。

私は長く東京および神奈川に住んだが、一度もここを訪れたことがなかった。

人は、遠く離れて初めて何かが見えるのかもしれない。

佐伯公園を出ると、私は次の目的地である椎名町へ向かって歩き始めた。椎名町駅の北には詩人小熊秀雄の終焉の地があり、池袋周辺には数多くの芸術家たちが住んでいた。

5月の日曜日、午前中ではあるが日差しはどんどん強くなっている。





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2009/5/14  19:06

東京探索行-第3回 2009.5  もう一つのエロシェンコ像  文学

麹町四番町から、次の目的地の竹橋へ地下鉄で向かった。

竹橋で、右手に毎日新聞社、左手に皇居、平川濠を見ながら国立近代美術館を目指す。桜の咲く頃に、このお堀濠を歩くと、さぞかし美しいことだろう。

近代美術館では、現在「ヴィデオを待ちながら」という特別展を行っている。7月初旬から行われる「ゴーギャン展」には関心があるがこの特別展にはまったく関心がない。

私が見たかったのは、新宿中村屋で2時間ほど前に見たばかりの鶴田吾郎作

「盲目のエロシェンコ」

と、同時に、同じモデルを対象に、同じアトリエで描かれた中村彜の

「エロシェンコ氏の像」

ただ一つだった。

受付で聞くと、4階に「エロシェンコ氏の像」が置かれている。常設展であるため入場料は420円である。思っていたよりはずっと安い。

受付の女性は、私が首から一眼レフカメラを下げているのを見て

「撮影は禁止です。ただし、ここで腕に許可証を付けて行くと撮影ができます。三脚、フラッシュは禁止です」

と、告げる。つまり、一応撮影禁止だが、腕に許可証を付けると撮影できる。なんと、回りくどいことだろう。私は、腕に許可証のラベルを付けてもらい4Fへエレベーターで上がった。

時間の関係で、すべてを見ようとは思っていなかった。狙いは1点。中村彜の作品だけだった。

大正9年9月、目白駅でロシアの詩人エロシェンコと出会った鶴田吾郎は、エロシェンコをモデルに制作することを決意。中村彜に相談すると一緒に彜のアトリエで制作することになった。

その結果、「エロシェンコ像」が二つ、90年近くを経て現在まで残され、鶴田吾郎の「盲目のエロシェンコ」は新宿中村屋に、そして中村彜の「エロシェンコ氏の像」は、ここ国立近代美術館に残されている。

私は、そのどちらも実際に見たことがある。もう、30年ほど前のことになるだろう。

今日の午後、新宿で中村屋に入り、鶴田吾郎の「盲目のエロシェンコ像」を見た私は、どうしてもこの近代美術館で中村彜の

「エロシェンコ氏の像」

を見ようと思った。そうしなければ片手落ちになる。

中村彜の作品は、イメージしていたよりは、小さかった。しかし、その明るい、柔らかな筆致と、ややうつむき加減で、繊細な詩人気質をあらわす表情はすばらしい。そして、何よりも実物のすごさを感じたのは、エロシェンコの髪のウェーブが中村の筆で繊細に描かれていることだった。

この絵を私はいつも自分の書斎の壁に掛けている。私が最も愛する絵の一つである。

この絵の作者中村彜は、旭川に縁の深い彫刻家中原悌二郎と親友である。中原には大正8年に制作された

「若きカフカズ人」

という傑作がある。こに作品は、中村彜のアトリエを借りて制作されたが、ちょうどその時、中村彜は病を得ており、故郷の茨城県平磯町に転地していた。

彜は、この「若きカフカズ人」のモデルとなったニンツアーを描きたかったらしいが、病のために果たせなかった。それだけに、鶴田吾郎の申し出によるエロシェンコ像の制作には一方ならぬ想いがあったことだろう。

親友中原悌二郎は、大正10年に結核で既に命を落とし、中村彜自身も「エロシェンコ像」を制作した4年後にこの世を去る。

私が、中村彜のこの作品を見たかった理由はもう一つある。

詩人小熊秀雄がこの世を去ったのは、昭和15年11月20日である。その一ヶ月後に「現代文学」小熊秀雄追悼号が出された。小熊秀雄をよく知る友人たちの、友情溢れる文章が掲載されている。

私は、亡くなって一ヶ月後に出されたこの追悼号を非常に愛する者の一人だが、その中に詩人菊岡久利の小熊秀雄の風貌を形容した次のような詩の一節がある。

「ああ、エロシェンコまがひの君が髪の毛
 やつぱりイワンのやうな格好をして・・」
    (菊岡久利「白樺の俗謡」)

確かに小熊は、ウエーブのかかった菊のような髪形をして、ロシアの農民のような服装をしていたらしい。また、小熊はロシアの詩を人並み以上に愛していたというから、この菊岡の一節は、詩人小熊秀雄の探索のために東京へ出てきた私を、新宿中村屋から国立近代美術館へと向かわせる大きな原動力となったのは確かである。



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2009/5/13  20:02

第二回 千駄ヶ谷から麹町へ-東京探索行-2009.5.  文学

新宿で、紀伊国屋の左に位置していたレストラン「オリンピック」の位置を確認し、そのあと中村屋へ寄り、鶴田吾郎の「盲目のエロシェンコ」を撮影し、その足で新宿駅へ戻った。

総武線へ乗り、代々木を経て千駄ヶ谷へ着いた。私は、これくらいの距離は、普段ならば歩く。今日も、」千駄ヶ谷まで新宿御苑を突っ切って歩こうかと思った。

しかし、東京での数多くの地点での調査のことを考えると、電車を使うしかない。今回は、旭川では全く使うことのないタクシーも使う予定である。少ない時間をいかに有効に使うか、それが、今、私が一番考えるべきことだった。

昭和15年(1940年)11月3日。明治節の夜、すでに肺を病んで久しい小熊秀雄は、千駄ヶ谷に住む友人大井廣介を訪ねる。

偶然に、大井宅を訪ねてきた杉山英樹にも出会い、彼は年下の友人二人に最後に最後の別れをする。

この時、小熊秀雄39歳、大井廣介28歳、杉山英樹29歳である。小熊は一人だけ30代後半であるが、この二人を年少の文学的な友として深く信頼していた。

この時小熊は、自分の命がまもなく閉じられることを、知っていたかのようである。しばらく話をして、大井と杉山は浅草へ行くことにした。病で苦しそうな小熊を椎名町へ帰そうと考えたのである。

三人は、大井の自宅から、普通なら5分ほどの距離を20分かけて千駄ヶ谷駅へ向かった。小熊の足がそれだけ遅くなっていたのである。

杉山は、千駄ヶ谷駅で小熊の体を抱いて階段を登ったが、小熊の薄い板のような胸のなかで何かざわざわと音がしていたと、回想している。

二人の友人と小熊が最後の別れをしたのが千駄ヶ谷駅である。

私が今回の旅で、どうしても来なければならなかったのが、この駅だった。

大井廣介は、この駅で小熊を見送ったとき

「可哀いそうだね、可哀そうだね」

と、繰り返し言ったと、杉山は回想している。

午後2時、私は千駄ヶ谷についた。プラットホ−ムの背後には、新宿御苑の沢山の樹木が見えている。

東京に住んでいた時、何度もこの千駄ヶ谷駅を通過し、必要な時にはこの駅で降りている。千駄ヶ谷を降りた南にある神宮球場で、学生の頃には東京六大学野球を観戦している。

しかし、昭和15年11月20日に小熊の死を目の前にして、大井と杉山がこの駅へ見送ったことを明確に意識して千駄ヶ谷の駅へ来たのは初めてである。遥か遠いう昔の出来事を、人は、なんと無意識のままに見逃すことが多いのだろう。

69年も昔のことである。


私は、千駄ヶ谷を出て、四谷三丁目から北へ向かった。

初めて訪れた「新宿歴史博物館」では、大きな発見をした。展示物の中に昭和10年当時の大きな地図が掲げられている。その中に紀伊国屋があり、その左隣に

「レストラン オリンピック」

と、確かに書かれている。幾つかの資料の中の写真でも「オリンピック」を確認した。これで、小熊秀雄にとっては最初で最後の2冊の詩集の出版記念会を行った会場を明確に特定できた。

わざわざ、東京にまで来て四谷三丁目まで来た意味があった。

また、詩人小熊秀雄は昭和15年3月、死の半年前に作家壷井栄の

小説「暦」

出版記念会に出席し、写真が残されている。やつれて、痛々しい小熊の顔。しかし、隣には中野重治が立ち、他にも江口渙、深尾須磨子、宮本百合子、壷井栄、佐多稲子、網野菊、岡本潤、上野荘夫、壷井繁治、中野重治、原泉、秋田雨雀、松山文雄、菊岡久利、田辺茂一、遠地輝武、窪川鶴次郎、高見順、平野謙ら数多くの興味深い人々が、この出版記念会に同席している。

会場は、新宿「寶亭」(たからてい)。しかし、この寶亭は、旭川では調べようがなかったが、この地図では駅の東の映画館「武蔵野館」のとなりに「料亭 寶亭」として明確に書かれている。

「オリンピック」に続いて、気になっていた「寶亭」も位置がわかった。

長い間の幾つかの疑問が、新宿歴史博物館でわかり、私は次に四谷駅へ向かって歩き始めた。


中央線、総武線の線路を下に見て高架を渡る。四谷駅周辺は、緑が多く、皇居が近いことを感じる。

四谷駅を過ぎて、上智大学構内を歩く。聖イグナチオ教会などを撮影する。この大学の創立は1913年、つまり現在調査している小熊の死の年には、この大学はすでにこの位置にあったのだ。

すぐに麹町四番町、ほとんど市ヶ谷に近い住宅街へ着いた。ここが当時杉山が住んでいた場所である。

昭和15年(1940年)11月3日に、千駄ヶ谷駅で小熊と別れた約二週間後の11月19日、大井廣介は、小熊の妻つね子から手紙をもらう。文面によると

「本人は知らないが、実は助からない。訪ねてくれないでしょうか」

ということだった。

大井は、その夜は一睡も出来ず、夜が明けた11月20日、市電の始発を待ち兼ねて麹町四番町へ行き杉山を叩き起す。当時杉山は結婚したばかりである。

こうして麹町を一人で歩くと、大井廣介の、小熊の死を感じる早朝の切羽詰まった気持ちが伝わる。

その後、大井と杉山は歩いて四谷駅近くに住むに住む菊岡久利を訪ねた。菊岡は風邪と神経痛で寝込んでいて出かけられない。この時、菊岡は31歳である。彼は、詩集「時の玩具」「貧時交」に続いて、この年の4月に「見える天使」を出したばかりだったが、病に倒れていたのだ。

菊岡を同行するのをあきらめ、四谷から市電で新宿へ向かった大井と杉山は、新宿駅近くのレストラン「オリンピック」でスープを買う。二週間前の明治節に大井宅で、小熊が大井の母が作った支那スープをおいしそうに飲んだのを、二人は覚えていた。

「オリンピック」のスープを小熊に飲ませれば、彼はもう少し生きるかもしれない。それが、二人の共通の思いだった。まだまだ、彼には生きていて貰わねばならない。その想いが二人の胸を去来する。

彼等は、新宿駅から省線に乗り、池袋へ向かった。椎名町の小熊の住む「東荘」まではそう遠くはない。しかし、その朝、彼らを待ち受けていたのは苛酷な小熊の死という現実だった。



麹町の広い新宿通りを進み、右手にホテル二ユーオオタニ、文芸春秋を見て、正面に皇居を望んだ地点で私は、次の目的地である竹橋へ向かった。時計の針は間もなく4時を指そうとしている。





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2009/5/12  18:33

東京探索行第1回-2009.5-盲目のエロシェンコ  文学

2009年5月9日、新宿駅の東口を出た街は、行き交う若者たちで溢れていた。

気温は25度。夏が近いことを思わせる暑さだった。

新宿のエネルギッシュな雰囲気は、東京の1970年代に青春を送った私が歩いていた頃の新宿と、基本的には変わらない。

変わったのは街ゆく人々の服装や髪型、携帯を手にしている若者が増えたこと。そして、多くのビルが建て変えられたことだろう。

さらには、私自身が年齢を重ね、現在は、東京を離れ故郷の北海道に住んでいることである。

反対の方向の西口に至っては、近代的な高層ビルが次々に建ち、かつての面影は全くない。

私にとっては今年は3月に続き、二度目の上京である。詩人小熊秀雄をめぐる調査を行っている私には、今回も幾つかの目的があった。

その目的の一つが、小熊秀雄が、昭和10年(1935年)に出版した生涯で出した二つの詩集

「小熊秀雄詩集」(耕進社)
「飛ぶ橇」(前奏社)

の出版記念会を新宿で行い、その会場であるレストラン「新宿オリンピック」の位置を特定することだった。

新宿の昭和初期の古い地図や写真で、「新宿オリンピック」は紀伊国屋書店の左隣あたりにあることはほぼ分かっていた。その位置は、新宿の後に、行く予定の四谷にある「新宿歴史博物館」で明確に判明するだろう。

新宿を歩いているのは、70年以上を経て大きく変化した現在の新宿に興味があるわけではない。ノスタルジックな市電が走り、伊勢丹が、三越が開店し近代都市の一歩を踏み出した新宿の大まかな土地感覚を掴みたかったのである。

詩人小熊秀雄が、生涯でたった二冊の詩集を出した時の記念すべき出版記念会のことは、ほとんどの年譜には書かれていない。その出版記念会は小熊にとっては、生涯でもっとも晴れやかな気持ちだったことだろう。

この出版記念会の際には、小熊は80人を超える参加者の前で「鶯の歌」と「ヴォルガ河のために」を朗読し、その際の記念写真も残されている。

その写真の中央に背広姿の小熊が座り、着物姿のつね子夫人が隣にいる。この写真の5年後に、肺結核ために小熊が命を落とすとは、本人も妻も、そして多くの参列者も誰も知らない。

私は、紀伊国屋書店の周辺の写真を撮ると、あまりもの人と車の喧騒にうんざりして、新宿から次の目的地の千駄ヶ谷と四谷、そして麹町へ移動しようと考えた。

新宿駅へ向かおうとして振り返ると、すぐ左に「中村屋」のビルが目に入った。

「純インド式カリー」と書いた看板がある。明治、大正、昭和期にここに集まった多くの芸術家たちのことが心に浮かんだ。荻原碌山、中原悌二郎、中村彜、秋田雨雀、エロシェンコ・・・。

ああ、そうだ、中村屋には画家鶴田吾郎の描いた

「盲目のエロシェンコ」

がここにある筈だと、私は思った。あの懐かしい絵を見ようと思った。最後に中村屋で鶴田吾郎の「盲目のエロシェンコ」を見てからもう何十年にもなる。今回を逃すと一体いつ見られるかは分からない。

中村屋へ入り、店の案内役の中年男性に

「鶴田吾朗のエロシェンコ像はどこにあるでしょう」

と、聞いた。彼によると、4階のレストランの入口前のロビーに飾ってあるという。

エレベーターに乗り、4階に着いた。最初に目についたのは正面にある荻原碌山の黒いブロンズ像の

「坑夫」

だった。右肩を落とし、左前方を見上げる、彫りの深い顔。魅力的な作品である。この作品は信州穂高の碌山美術館にも、東京の国立近代美術館にも、そして、私の住む旭川の彫刻美術館にも同じものが飾ってある。

「坑夫」の置かれてあるすぐ右手のレストラン入口の壁に、鶴田吾郎の

「盲目のエロシェンコ」

が掛けられている。

大正9年9月、画家鶴田五郎は目白駅で盲目のロシアの詩人エロシェンコと出会った。鶴田は、エロシェンコの詩人らしい風貌に惹かれ、その場でモデルになることを依頼する。

当時、鶴田吾郎は友人の画家中村彜と共に目白駅近くの落合に家を借りて住んでいた。病気がちだった中村彜の要請を受けて、鶴田はエロシェンコを中村の広いアトリエで二人で描くことを決意した。

鶴田はエロシェンコに向かって右に位置した逆光の場所から、中村彜は左に位置した場所からエロシェンコを描き、中村作品は「エロシェンコ氏の像」として現在東京国立近代美術館に所蔵されている。

鶴田吾郎が完成させたのが「盲目のエロシェンコ」であり、その後、当時出入りしていた「中村屋」の所蔵となり現在に至っている。

二つの絵の評価はさまざまであり、世間では中村彜の作品の方が一般には広く知られている。

私は、中村彜の作品に比べて、色調の暗い、やや地味とも言える鶴田吾郎の作品を久しぶりに見て、中村彜の作品に比べて決して劣ることなく見事だと思った。

何よりも、目白の駅で鶴田吾郎がエロシェンコに出会い、その風貌に惹かれてモデルになることを依頼しなければ、中村彜の作品はこの世に存在しなかったのである。

鶴田の、日本絵画の歴史で果たした功績は大きい。

昭和初期に、小熊が自らの二冊の詩集の出版記念会を行った「オリンピック」、そして同じ新宿の通りの目の前にある「中村屋」には、小熊の上京の前の大正時代に集まった芸術家たちの存在のあかしともいえる

「盲目のエロシェンコ」

という作品が今もって残されていた。
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2009/5/9  6:51

佐伯祐三展-情熱の輝き  

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2009年5月4日、久しぶりに北海道立美術館を訪れた。数年前にゴッホの展覧会を見て以来のことである。

4月24日から、ここで佐伯祐三展が行われている。

佐伯の絵は、何冊かの種類の画集で繰り返し見ている。実物も東京で数度、そして最近では1998年の生誕百年記念として行われた笠間日動美術館の展覧会を見ている。

それにしても、最後に見た佐伯の展覧会から10年を経ている。なかなか旭川では触れるチャンスのない佐伯の絵を見たいという気持ちが高まっていた。

会場を入ると数枚の自画像が並べてあった。

インクで書かれた1919年(大正8年)の自画像の裏には次の言葉が書きつらねてある。

「クタバルナ
 今に見ろ
 水ゴリをしてもやりぬく
 きっと俺はやりぬく
 やりぬかねばおくものか
 死
 病
 仕事
 愛
 生活」

佐伯は、1898年(明治31年)生まれだから、この激烈な言葉を書いたのは21歳。
30歳でパリで亡くなった佐伯は、まさにこの気迫で病と仕事と愛に立ち向かい、そして早すぎた死を迎えた。

思想や政治とは無縁なままに、芸術だけに向かって行った佐伯。その若さが書かせた言葉だろう。

何枚も並んだ自画像では、東京芸術大学卒業制作で母校に残したものが一番私は好きだ。どこか、中村彜の「エロシェンコ氏の像」を思わせる柔らかい筆致だが、どうやら佐伯は中村彜に影響を受けていたらしい。

その後、第一次、第二次パリ時代の街の風景を描いた多くの作品を時間をかけてみた。

特に、第二次のパリ時代の鮮やかな色と激しい筆使いに感動する。

80年以上も前の絵の具が、いまだに彼の描いたままにキャンバスに浮き上がっている。死をも乗り超えようとした気迫が、時間を超えて私に迫ってくる。

芸術は朽ちず・・・。佐伯はわずか30歳で命を閉じたが、彼の残した作品はいまだに生きている。

日本人やフランス人の友人達の絵が、彼の作品に続いて飾られているコーナーがあった。しかし、どうしても佐伯の激しい天才的な情熱のエネルギーが友人達の作品を超え、私は友人たちの絵をまともに見ることが出来なかった。

静謐を超えた激しさは、天を駆け巡り、宇宙的な光へと昇りつめる・・・。佐伯の芸術とはそういったものだ。 
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2009/5/7  14:07

小田観蛍歌碑  文学

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昭和33年、私は富良野市の鳥沼小学校というところに入学した。その名の通り、鳥の住む小さな沼のある牧歌的な水田地帯である。

校歌は小田観蛍という歌人の作詞で

「仰ぐ青空・・・」

で始まる印象深いものだった。

小田観蛍は、大正時代、この小学校の校長先生だったらしい。

しかし、私は小学校4年で鳥沼を去った。

その後、大人になってからも懐かしい鳥沼を何度も訪れている。いつのまにか、沼の畔に校歌を作詞した小田観蛍の歌碑が建っている。

「十勝岳火は生くかぎり絶えせねば けわしき道も 我は行くべし」

昭和25年の建立というから、私の少年時代からあったのだが気がつかなかった。

鳥沼で校長先生をやっていた大正時代に、小田観蛍は妻を亡くしている。それが、「けわしき道」という言葉をこの歌に残させたのだろうか。


小田観蛍は富良野を去ってから、小樽中学へ転勤し、この小樽で北海道を代表する歌人となった。しかし、なかなか小樽港の背後の山奥に立つ彼の歌碑を訪ねる機会がない。

旭川の大正、昭和の歌人たちの軌跡を調べていると

「小田観蛍」

という名がよく出てくる。まだ、確信は持っていないが、旭川に当時いた歌人たちの、斎藤瀏、小熊秀雄、酒井広治らと関わりがあったらしい。

ひょっとしたら、小田観蛍は、詩人小熊秀雄とも面識があり、親しく話をしたかもしれない。

今回の旅では、小林多喜二の文学碑の奥にある

「小田観蛍」

の歌碑を必ず見つけようと思った。

2009年5月3日、奥沢の小林多喜二の墓、さらに旭展望台の小林多喜二の文学碑を訪ねた後、林道を走って小田観蛍の歌碑を見つけた。

大きな石に刻まれた歌は次のものだった。

「距離感のちかき銀河をあふぎをり身は北ぐににすみふさうらし」

歌碑の背後の樹木の間からは小樽の街と海が見渡せる。富良野から小樽へと移り住み、短歌を作り続けた小田観蛍の人生と初めて深く触れあうことができた。

そして、銀河を歌う歌人小田観蛍の作った鳥沼小学校の校歌を歌った少年時代を過ごした幸福を想った。


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2009/5/5  17:39

多喜二墓にて  

少熊秀雄と小林多喜二は昭和初期の同時期、東京に住んでいた。しかし、交友があったという形跡はない。

また、小説家をあれだけ風刺の対象とした小熊に、小林多喜二を揶揄した詩は残されていない。小林多喜二の死と、残された作品を読むと、さすがの小熊も多喜二を風刺詩の対象とする気持ちにはならなかったようだ。

昭和8年(1931年)2月20日、小林多喜二が築地署で拷問されて亡くなったという知らせを受けた小熊は藤森成吉宅へ行く。小熊はそこで警察に逮捕され、29日間拘留される。小熊はこのときの状況を具体的には書き残していない。

しかし、数年前にも一度拘束されたことがあり、二度目の拘束とはいえ、29日間。決して短いとは言えない。警察でどのような扱いを受けたのか、その後の詩作に影響があったのかは定かではない。

小林多喜二と小熊は大正10年(1921年)にも小樽で短い期間だが、近接して暮らしていた時期がある。当時、多喜二は小樽高商の学生で17歳、小熊は久しぶりに会った姉のいた旭川に職がなく、小樽妙見町の川上呉服店で店員であり20歳だった。

学生服を着た小林多喜二と、行商用の反物を背負った小熊が、小樽の町ですれ違った可能性は十分にある。


2009年5月2日。二人の生きた時代から遠く隔たった小樽へ着いた私は、奥沢墓地にある小林多喜二の墓を訪ねた。

数えきれないほどに小樽を訪ねているのに、小林多喜二の墓地を訪ねるのは初めてである。

やっと、桜が少しだけ咲き始めた小樽は暖かく、墓地にも春らしい鳥の声が満ちている。

坂の急な墓地だった。車を止めた地点から左へと向かうがなかなかそれらしい場所がみつからない。
しばらく行くと、

「小林家墓所」

と、書かれた小さな道標が立っていた。

背後に森のある大きな、古い墓だった。何度も訪れようと考えながらなかなか実現できなかった多喜二の墓の訪問だった。

春のさわやかな風の吹く中で手を合わせる。

ここを訪ねたつい2か月前の3月初旬、東京多摩墓地で詩人小熊秀雄の墓を訪ねたばかりである。1982年以来27年ぶり二度目の小熊墓所訪問だった。

二人には交友はなく、友情もなかったと思われるが、小熊は、自分の生まれた小樽から上京した3歳ほど年下の作家小林の作品を読み、何かを感じていただろう。だからこそ、小林多喜二虐殺の日に藤森の家を訪ねて逮捕へ至ることはなかっただろう。

墓の横へ回り込むと

「昭和5年6月2日 小林多喜二建之」

と書かれている。多喜二は原稿料収入から500円を小樽の母へ送り、母の望んでいた墓を建てた。多喜二の死後、東京から母が彼の遺骨を持ち帰り、この墓へ納めた。母も多喜二自身もこれほど早く多喜二がこの墓へ入ることになろうとは思ってもみなかったに違いない。

母セキは、昭和41年(1966年)88歳で亡くなり、この墓へ入り、多喜二とともに眠っている。

小熊と小林多喜二の墓所を、今年訪ねることになったのも何かの縁だなと思った。そして、小樽に縁の深い二人の昭和初期の東京での死を思い浮かべながら、私は、次の目的地である旭展望台の「小林多喜二文学碑」へ向かった。

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2009/5/1  6:50

橋畔  

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一枚の写真がある。

大正13年(1924年)10月。8人の若き青年が肩を組み、全員がカメラに向かって口を開けて笑っている。まるで学生が歌でも歌っているかのようだ。

彼らの後ろには、沢山の絵がかけられ、展覧会場のようである。

青春の幸福な一瞬。その一瞬が、その写真に鮮やかに残されている。

旭川ビルデイング楼上で行われた旭川美術協会の展覧会場でのことである。
着物姿が5人、背広姿が3人。大正期の青年は旭川の町を着物姿で歩いていたのだろう。足元を見ると前の四人は草履をはいている。

詩人小熊秀雄が後列右から二人目に、にこやかな着物姿で立っている。
同じ後列の左端に背広を着た親友高橋北修が立っている。

さらに前列左端には、椅子に腰かけた着物姿の関兵衛がいる。彼は小熊と同年の1901年生まれである。すぐ後ろの先輩3歳年上の高橋北修の右手が、関の肩越しに差し伸べられ二人の手は固く握られている。

小熊秀雄は当時旭川新聞記者になって2年目、旭川で仕事以外の場での友人関係が増え、絵の方面でもその才能を伸ばし始めていた。

この会場に、小熊は鮭の尻尾をぶら下げた作品
「土と草に憂鬱を感じたり」
を出品した。これは、旭川新聞掲載の樺太行き汽船出帆広告をコラージュしたもので、その鮭の尻尾を会場に入った犬が食ったということで、新聞掲載の漫画にも扱われ、評判となった。

この会場で、当時神威小学校の教員だった崎本つね子と出会い翌年の大正14年2月に二人は結婚する。出会って3ヶ月目のスピード結婚だった。



2009年4月下旬、1月に私自身の展覧会を行った「ギャラリー北の森」へ出かけた。このギャラリーのオーナー夫妻が持っている絵画や陶器などを展示する催しだった。

そのギャラリーに、なんと繰り返し見ている大正13年の展覧会の写真に現れる青年たちの中の高橋北修の「神威古潭」、そして関兵衛の「橋畔」の二つの作品が飾られていた。

高橋北修の作品は、旭川の幾つかの場所でその作品を目にしたことがある。大雪山を描いた雄大な作品は魅力的だが、このギャラリーで展示されている「神威古潭」は荒々しいタッチで神威古潭の岩肌と白い吊橋を描いた素晴らしい作品だった。

一方、関兵衛の作品は、見たことがなかった。飾られた作品は、石狩川の堤防の右手に大きく旭川の象徴である旭橋が描かれ、その背後に十勝岳連峰が見えている。稜線には暁の光が浮かびあがろうとしている。

高橋の作品に比べると小さいが、私を引きつける魅力がある。不思議な縁を感じた。


小熊秀雄は、詩人として立つために昭和3年(1928年)に家族とともに上京した。高橋北修とも関兵衛とも、その後会う機会はなかったようだ。

しかし、10年後の昭和13年(1928年)に彼は旭川へ帰省、友人たちと会っている。

私は、この二つの絵を見て、事実はともあれ、高橋北修とは郊外の「神威古潭」へ行き、二人でその吊橋の風景を描き、関兵衛とは旭橋周辺を散歩して、お互いに「旭橋」を描いたのではないかと想像した。

小熊には「旭橋」を描いたペン画と詩が残されている。彼が「神威古潭」を描いたかどうかは確証がない。しかし、事実とは違っていても、この三人がそれぞれに10年ぶりの友情を確かめ合い、これらの作品が生まれたと私が想像するのは自由である。

関兵衛の絵の左下の堤防には、スキーをはいた男が先へ先へと疾走する姿が描かれている。この絵は、このスキーをはいた男が描かれてこそ生きている・・。私はそのように感じた。

 厳冬の 橋の畔を 駆け抜ける 若き心は 暁に燃え
     
        −玄柊− 2009年 4月30日作


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