慶応三年2月(1867年4月)、フランス・パリで
万国博覧会が開催されました。
当初フランス政府は、幕府の外国奉行駐仏理事官
柴田剛中に博覧会への参加を勧めます。
しかし、柴田ら幕府側が返事を渋っている間に
薩摩藩使節員の新納久脩と五代友厚がモンブランと
交渉を図り、薩摩藩の参加が決定しました。
それを聞いた幕府側は慌てて参加を認めます。
また、佐賀藩も参加することになります。
薩摩藩は着々と準備を進めて行きます。
出品する琉球の泡盛・物産、薩摩の漆器・陶器など
400箱をグラバー商会に依頼して長崎から発送しました。
薩摩藩は、博覧会の全権使節として家老の岩下方平を
派遣します。岩下に同行した11人の中には、
通訳士の堀孝之、斎藤健次郎やライル・ホームがいました。
前年に新納と五代がモンブランと商談し、仮契約した
貿易商社設立の本契約することも目的でありました。
慶応三年1月2日(1866年2月6日)、パリに到着した
岩下ら使節団は、博覧会の全権をモンブランに任せながら
準備に取り掛かります。
モンブランは、薩摩藩と幕府があたかも対等であるように
新聞や雑誌に発表させます。
また、勲章好きなフランス人のために
レジョン・ドヌール勲章を真似た「薩摩琉球国勲章」を
薩摩藩に作らせ、皇帝はじめ政府高官に送り、
薩摩藩が優位になるような策略を進めていきます。
展示についても幕府とは別に設けて出展します。
これに対しては幕府側も異議を申し立てますが、
幕薩両者の協議において
「日本大君政府」、「薩摩太守政府」、の名称を使うことで
落ち着きます。
これによって、日本は連邦国家であるという印象を欧州諸国に
与えました。
(「若き薩摩の群像」門田明著参照)
結局、幕府側はヨーロッパにおける面目を失い、薩摩藩との
対立が深まっていきます。

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