慶応3年4月8日(1867年5月11日)留学生の監督役であった
町田久成は帰国するため中井弘らとロンドンを離れます。
町田の帰国理由は、悪化している留学資金問題を解決するためで
ありました。
また、岩下方平らの使節団とモンブランとの接触が
英国側の不評を買っていたため、藩庁に対して使節団の態度を
改めるように申し入れる為であったようです。
「今度岩下氏がモンブランをはじめ、多くのフランス人を同伴して
帰国するとの事であるが、なぜあのように信用の置けない人物を
雇うのか合点が行かない。モンブランのようなベルギーの
一貴族が、何らの他意なくして薩摩藩のために尽力するはずが
ないではないか。たとえその意志があったとしても、国内
事情に通じないで、なぜ藩政の一端を任せられるというのか。
そのことを思うと国家の前途が案じられて夜もろくに
寝られないほどである」
慶応3年6月9日(1867年7月10日)、町田は『建言書』を
畠山久成、鮫島尚信、松村淳蔵、森有礼、吉田清成の連名で
藩庁に提出します。
「利害の欲心にとらわれ、侵略行為を繰り返す弱肉強食の体質が
欧米諸国の体質である」
『建言書』は、ハリスやオリファントの影響を強く受けており、
モンブランに対する批判から、ヨーロッパ全体の制度、政策への
西洋批判になっています。
(「若き森有礼」犬塚孝明著参照)
藩庁への『建言書』提出は、忘れ去られようとしていた
留学生たちの存在を、藩に再確認させるためでもありました。
(「薩摩藩英国留学生」犬塚孝明参照)

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